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第十章 第13話

 阿部師長の顔を恐る恐る見た。今回の急患はこの救急救命室ではそんなに難易度が高いケースではない。   阿部師長はベッドの空きが有るまで受けるし、急患…しかもDOA(到着時心肺停止)患者の蘇生術も含めて10人も受け入れたこともあったので。  彼女は眉間に皺を刻んでいた。  やはり、祐樹の指揮ではまだまだだったのだな…と思い、明日は香川教授と逢うのを身を切るような思いで諦めなければならないな…と。しかし、これも祐樹が未熟だったせいなので仕方がないと腹を括った。  その時、彼女は意外にも祐樹に笑いかけた。 「初めてにしては良く頑張ったじゃない?もっとオロオロするかと思っていたんだけど…合格点には達しているわ」 「本当ですか?」  嬉しさの余り、声が弾む。 「心臓外科から引き抜いて、こっち専属になって欲しいくらいよ。今はココ、指揮官不在だから…」  そう言って意味ありげに笑った。祐樹が心臓外科に執着している理由を知っている上での笑いだろう。 「心臓外科をクビになった時は是非お願いします」  無難に答えた。  その夜は、複数の重篤な急患が同時搬送という最悪のパターンは幸いにしてなかったので、祐樹もいつものように治療に専念した。  といっても、心臓停止の患者さんは運ばれてきたので、開胸心臓マッサージは行ったが。  治療に専念していると、時間が経つのはあっという間だ。フト時計を見る。5時になっていた。 「心臓外科に行く前に、シャワーを浴びに自宅に戻ります」  祐樹のここでの勤務時間は5時までとなっている。まぁ、それが守られていないのは事実だったが…。阿部師長にそう言った。 「シャワーならココにもあるのに…」 「しかし、着替えたいですし…」 「リネン室でついでにナースが洗濯してくれるわよ?」  香川教授が祐樹の部屋に居ることを知らない阿部師長は親切心からだろうが言ってくれた。 「いえ、少し気分転換もしたいので、やはり戻ります」 「そう…お疲れ様。今夜は来なくていいから…そちらの件でしっかりね」  『そちらの件…』は香川教授を力付ける件だろうが…祐樹は言葉ではなく、身体で会話をしたかった。 「はい、そうします。今回は大変勉強になりました。たかが研修医ごときにこんな大役を任せて下さって有り難うございます」  『たかが』以降は救急救命室全体に聞こえるように言った。患者さんは皆、意識不明か、ロビプ(鎮静剤)点滴で意識がないのは知っていたので。先ほどは不承不承で祐樹の指示に従っていた脳関係に強い医師が苦笑いをしながら言ってくれた。 「田中先生が私にバイクの患者さんのCT画像を頼んだのは、女性の脳に損傷が有った時のためだろう?CT画像は誰でも扱えるが――まぁ、熟練度によって解析度の度合いは異なるが――女性の脳は私が適任だと判断し、脳に損傷が有った時は私を女性の担当にしようと考えたのだろう?」 「ええ、そうです。CT画像チェックは私ですら出来ますが、脳関係は先生が適任ですから…女性の容態次第では交代しようと思っていました」  中堅の医師は感心したように頷いた。 「私もさっきそれに気付いたのだ。救急救命室勤務が長い私よりも田中先生の方が状況判断の鋭さに脱帽したよ」 「有り難うございます。こちらこそ、こんな若輩者のおこがましい指示に従って戴いて申し訳ありませんでした」  丁寧に頭を下げ、救急救命室の控え室に置いてあった私服に着替えて外に出た。殆ど寝ていないので、本当は走りたかったが今日の手術のためにも――そしてその後の下心のためにも――体力は温存しておかなくてはならない。  風薫る皐月の新鮮な太陽の光と空気に触れて気分も上々だ。今夜は教授と過ごせるかも知れないので尚更。  杉田弁護士の示唆が真実ならば…そして、祐樹の推論が当たっていれば、二度目からはともかく一度目の逢瀬で、祐樹は彼に酷いことをした。口に砂が入ったような気分になってしまう。しかし、それも確かめてからのことにしようと思う。 「きっと彼は睡眠中だろう…」  そう思ってそっとマンションの扉を開けた。が、意に反して部屋には味噌汁と焼き魚の良い匂いが漂っていた。彼はもう起きて朝食の支度をしているらしい。  フト悪戯心が起きて、そっとキッチンスペースを覗く。彼は、半袖のTシャツに室内用のスラックス姿だった。寝ている時までそういう格好をしていないだろうから、起きて着替えたのだろう。几帳面な彼らしい行動に自然と笑みが浮かんだ。起き抜けでぼんやりとしているのか、それとも料理に集中しているのか…彼は祐樹の気配に気付かない。  後ろから彼の姿をそっと見詰めていた。彼の裸体は何度か見たが、朝食の準備をする彼の腕が印象的だった。  細いのに、筋肉が薄く付いた腕はとても綺麗だった。白くて長く、そして要所要所の骨はしっかりと浮き出ているのに、他はすんなりと伸びている。理想的な腕を再発見して、見惚れていた。  と、同時に包丁使いの正確さから、彼はかなりの料理上手だと分かる。  祐樹の最初の手料理を何も口出しせずに見守ってくれたのだな…と再確認する。これだけ料理が上手ければ何かを言うハズなので…。料理だけでなく、祐樹の過去を知っても同じように調子を合わせてくれた彼…浅薄な自分に自分で愛想が尽きそうだ。  よくもあんないい加減な祐樹に呆れもせずに付き合ってくれる教授に、ますます気持ちの傾斜の角度が鋭角になる。  ふと、彼が振り返った。上半身はこちらに向け、下半身は元のままだ。少し細いが彼の理想的なウエストラインが露わになり、祐樹はどきりとする。 「帰ってきたのか…。無理しなくていいのに…」  そう言いながらも彼は嬉しそうにほんのりと微笑んでいる。 「ええ、約束しましたから。ただ今帰りました。朝ご飯、作って下さっていたのですね」 「ああ、帰ってこないかと思っていたが…。お帰り。朝食は…居候だから当たり前だ…」  何だか、この挨拶が嬉しいような恥ずかしいようなこそばゆい気持ちになった。自然と笑みが深くなる。 「有り難いです。シャワーを浴びて来ます」  祐樹の笑顔に彼も花が開いたような笑みを浮かべた。その後教授が頷いたのを確認して着替えを持って浴室に入った。  シャワーを浴びながら、彼の腕やウエストライン…そしてそこから伸びるしんなりとした脚を思い出していると、危険な欲望が頭を擡げてきそうなので慌てて、星川ナースの黒幕は誰かという思考に切り替えた。

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