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第十章 第12話
大急ぎで救急救命室に戻りながら考えた。
従来の祐樹は、先輩に指導されて…いわばその一兵卒というか、言われるまま、指示されるままになって走り回ってきただけだと。では指揮官になるにはどうしたらいいか…が今夜の課題だ。これをクリアすれば明日の夜は教授と一緒に過ごすことが出来る。
明日の夜…次の日には星川ナースが誰からお金を振り込まれていたのかが分かるので、香川教授の敵が大方は判明するだろう。教授もはっきりと名前が出るまではさぞかし気を揉む。それを回避するためには…やはり一緒に過ごす方がいい。しかも、彼は行為の最中だけ、神がかり的な記憶力も思考力も飛んでしまうと言っていた。
下手に話して彼に考える余地を与えるよりも、例え刹那であれ、肉体の悦楽に現実逃避させる方がいいのではないかと思った。
そういえば…教授もポジションが目まぐるしく変わった人だったな…と思い出す。
アメリカ時代は、まず病院の医師ではなく看護スタッフとして病院に入ったと聞いている。その後、医師となり、執刀医となった。そして日本に帰国してからは最年少の教授だ。
それなのにしなやかに、つつがなく業務をこなしている理由は?と考えて、今夜の阿部師長の試練の「祐樹が救急救命室の指示をする」という業務を成功させるヒントを貰ったような気がした。
救急車のサイレンがますます近付いてきた。音から察するに三台が連なっているらしい。
――最低でも3人の急患が同時に搬送ということは、事故か食中毒の蓋然性が高い――
そう思って、救急救命室に駆け込んだ。
「状況の説明お願いします」
そう言うと、阿部師長がお手並み拝見といった感じで報告してくれた。
「交通事故。バイクと乗用車の接触事故。バイクの方は全身打撲。骨折も視認する限り大たい骨と右手。内臓の損傷も疑われる。乗用車の運転席の男性は、エアバックが効いて意識もあり、外傷レベルは低い。助手席の女性は、シートベルト着用が不十分のためか、フロントガラスに激突し、腰骨と頭部及び肩部打撲。ただし意識はあり」
「阿部士長は、バイクの患者さんに付いてCTを大至急お願いします。女性に意識はあるのですね、ではそこの方、女性に妊娠の有無を確認。疑いがあれば検査を」
一番、若いナースに聞き取り調査を依頼した。ナースが頷く。
不意に教授の顔が脳裏に浮かんだ。想像上の笑顔に勇気付けられる。
腰骨辺りに損傷があれば、妊娠していた場合色々厄介だ。女性の場合は「まず妊娠を疑え」が合言葉なだけに。
「男性の治療は、念のためにCT画像を撮影の上、そうですね、先生にお任せします。付き添いのナースは先生がお選び下さい」
そう言って、一番疲労の色が濃い先生にお願いした。疲労度が高いイコールミスをする可能性が高いということなので。そして、ナースの指名を先生に任せたのは、基本的に医師に付くナースは決まっている。
救急救命室専属の医師でも、それぞれに得意分野を持っている。骨折整復に強い先生も居れば、火傷に強い先生も居る。祐樹の専門は心臓外科だが、内臓関係は大体出来るようになった。
救急救命室でも、医師は特定のナースと組むことが多い。例えば、香川教授の手術の道具出しは星川ナースと決まっているのと同じく。それならその先生が得意とする分野はナースも手馴れているわけで…医師とセットにして配置するのがベストだろう。
「妊娠マイナスです」
救急救命室には基本的にプライバシー尊重の視点は存在しない。なぜなら戦場なのだから。
「では、レントゲンとCT両方使って…内臓の損傷の確認を…」
阿部師長から事情は聞かされていたのだろう…。祐樹が見ていても一番内臓関係に強い医師が黙って挙手する。祐樹の発言を待っていたようだった。
「お願い致します」
そう言って頭を下げた。阿部師長の気まぐれで指揮権を預けられてはいるが、祐樹は一介の研修医だ。本来ならば、兵隊としてこき使われているのが相応しい。
挙手した医師も、研修医ごときに言われて処置をするよりも、自分から名乗り出た方がまだマシだと思ったのだろう。当然の反応だ、プライドのある医師ならば。その時から救急救命室が動き始めた。生理食塩水のボトルを持って走るナース達やシリンジ(注射)や点滴の準備をする者も居る。
「バイクのCT出来ました」
そう言われて、画像を見る。当然、全てのバイタルサインはチェックしてある。
「CTだと少し分かりにくいですね…。ただ、この肋骨の骨の折れ方が気になります。心臓に達しては居ませんが、もう少しで心臓に触れます。すみませんがレントゲンで確認お願いします。」
そう言って、脳関係に強い先生にお願いした。
不承不承に頷く先生に思わず苦笑いが出る。祐樹とて好きで指揮をしているわけではない。ただ、救急救命の先生は阿部師長に指揮されることに慣れているからか…?研修医の祐樹の指示でも動いてくれるのが助かる。
脳専門の先生が自分付きのナースを引き連れてバイク患者(と言っても、もう、着衣は業務用ハサミで切られていたので、バイクに乗っていたということは外見からは分からないが)のレントゲンを撮りに行った。その間に、女性のCTとレントゲン写真をチェックした先生の報告が上がる。
「頭部は外傷のみの損傷。但し出血が酷い。腰骨も骨折はしていない。」
「有り難うございます。では脳内出血の有無どうですか?」
「それもない」
最低限の返事はここでは普通のことだ。脳内出血が無くて何よりだった。辺りにはイソジンと血の臭いが立ち込める。床は既に血まみれになっている。
「では輸血お願いします。腰骨の損傷はどの程度ですか?」
「手術は必要ないだろう。コルセットで固定すれば大丈夫だ」
「それは、ナースにお願いして、先生はバイクの患者さんのために待機お願いします」
「分かった」
2人分が捌けてしまうと――と言っても、彼らはベッドに横たわり、祐樹が処方し、阿部師長が承認した点滴治療を受けているが――後は一番外傷の酷いバイクの患者さんに専念すれば良くなる。
心臓は自分が診ても良かったが、内臓関係に強い先生にお願いすることにした。救急車は時間やこちらのタイミングを考慮してくれない――当たり前だが――その時に自由に動けるようにしなければならなかった。
これらの手法は全て香川教授から学んだことだった。彼は自分の得意なことに専念し、全責任を負う代わりに、自分の手が回らないところは黒木准教授や長岡先生に仕事を振って報告を受けて決済し、最終的に自分に責任が来るようにしている。その途中経過はあまり口を挟まないようだった。
祐樹も今夜は、自分が指揮だけを執ればいいと思い至った。
緊急開胸手術が行われ、肋骨の先端部分が心臓から数ミリ離れているのを確認した祐樹は、自分でなくても出来ると判断し、内臓関係に強い先生に手術の続行を頼んだ。並行して骨折整復に強い先生に大たい骨の整復を依頼する。そこが終れば右手の骨折の整復だ。
カルテを見せて、手早く打ち合わせをする。
阿部士長の方をチラリと見た。新米のナースが床の血を始末している。祐樹にとっては台風一過といった感じだったが、この程度のことは阿部師長には日常茶飯事なのだろう。
彼女の判断はどうだろうか?治療の最中にダメ出しはかからなかったが。
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