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第十章 第11話
「それは分からない…な。その先生の体力次第だから…」
「それは…そうですが…」
「何?医師なら医師らしく!思ったことははっきり言わないとスタッフが困る!」
威勢良く怒鳴られ祐樹は苦笑する。恋する年増は何処に行ってしまったのだろう?といっても世間ではアラフォーと呼ばれて女盛りだそうだが。
ただ、27歳の祐樹にとっては十分年増だ…。杉田弁護士とはお似合いの年齢なのだから。
「どうせ、明日の夜、当直を休みたいと言うのでしょう?」
図星だったので大変驚いた。
「どうしてそれを?」
「星川ナースに化けて私が代理人契約を結んだ結果が水曜日に返答されるのよね?彼に聞いたわよ」
口振りは面白がっているようだが、口調は真剣だ。
「つまり香川教授が居ても立ってもいられない状況だから傍に付いて居たいと思っている…違う?」
それも有ったが杉田弁護士の昼の会話を是非とも確かめたいとの思いの方が強い。が、それをいくら相手が物事に動じない阿部師長に言うのも憚られる内容だ。
確かに、教授は落ち着かない夜を1人で過ごすだろう…それはそれで心配でもあったが。
「そうです。どうすればお休み戴けますか?」
無理だろうと思いながらも一応聞いてみる。
「そうねぇ…ウチは患者さんが重なる時は重なるから…。あ、そうだ。良いことを思いついた。今夜患者さんがバッティングした時の総指揮を田中先生にお願いしちゃおうかな?それで、私が考えていた順番通りに処置するかどうかをチェックするってのはどう?もちろん、滅茶苦茶なことをしたら止めに入るけど…。田中先生の進歩を知る重要な手掛かりになるから。ステっちゃった先生達は、当直室で眠剤の点滴を受けて寝ているハズだから、明日は回復しているし…。ただ、ウチも人手不足だからなぁ…」
「分かりました。随分と分の悪い賭けですが…やります。その代わり上手くやりおおせたら明日はお休み戴きますよ」
祐樹はその気になれば、男女問わず怖がらせる目つきが出来る。と言っても、救急救命の主である阿部師長に効果があるかどうかは分不明だが…やらないよりはマシだ。
「あ、怖い目つきだわね。田中先生の本気が分かったわよ。ちゃんと約束を守れば、明日は休んでいいけど、これも貸しにしておくからね」
流石に救急救命室で修羅場をかいくぐった阿部師長には祐樹の視線は役に立たなかったらしい。「怖い」と言いながらもどこ吹く風といった表情だった。
「……分かりました。今、患者さんはゼロですよね?」
「そうよ。救急車で運ばれて来た急患の患者さんは然るべき処置をして病室に上げたわよ」
夜中に病棟には上げることは不可能だが、昼間ならそれも可能だ。
「ちょっと、休憩戴いてもいいですか?」
「良いけど…。だけど…」
少し考えるふうをして彼女は言った。
「分かっています。救急車のサイレンの音が聞こえたら直ぐに戻れるように建物の中…まして時間が掛かる上階には行きませんから」
「なら、好きにしていいわよ」
阿部師長の御言葉、いや御託宣を貰って、救急外来の家族控え室に置いてあるジュースの自動販売機から、無糖のコーヒーを買った。
その後、教授室の建物を見ることが出来る中庭でコーヒーを飲み干した。彼の部屋は散々訪れているのでどこにあるかは分かる。おまけに他の部屋は電気が消えているが。――教授の皆さんは帰宅されたのだろう――それにも関わらず彼の部屋には電気が点いていて在室が分かる。
彼の姿が一目でも見えたら…と思ったが、それは無理な相談だと思って、ただ彼が居るハズの窓を眺め続けた。缶入りコーヒーも飲むのが目的ではなくて、飲み干した後の灰皿用だった。煙草に火を点け、杉田弁護士との会話を反芻する。教授に対してこれまで抱いた違和感をああまで見事に解析されたので。その論理展開に矛盾が無ければいいなとフト思う。
そして、杉田弁護士の推論とは一体?
そう思った時に、杉田弁護士と三人で星川ナースの件で話し合った和食の店のことを思い出す。
あの時、2人きりになった教授は、こんなことを言ってなかったか?
『祐樹のことは学内で見ていた』
祐樹は視線には敏感な方だったし、もし、医大生だった頃の香川教授の視線を感じたら絶対にそちらに視線を送ったハズだ。その上彼の容姿は祐樹の好みだったハズなので絶対記憶にバッチリとインプットされたに違いない。それが皆無ということは…教授の視線が祐樹の視界から死角になるように放たれていたとしか考えられない。
煙草に火を点けようとして100円ライターの点火ボタンを押す。が、内心の動揺を反映してかなかなか炎が上がらない。
――もしかして、彼はずっと祐樹のことを意識していた?――
杉田弁護士も『初恋は医学生の時かな?』と突っ込んで聞いたのはそのせいだったのかも知れないことに思い至り、愕然とした。
やっと煙草に火を点けることに成功し、動揺を鎮めようと紫煙を肺活量の限界まで吸い込んだ。
――とにかく、明日彼に逢って聞けるところまでは聞きたい――
そう切実に思っていると、救急車のサイレンの音が複数近付いて来る。慌てて煙草を缶の中に入れて火を消す。
「幸運がありますように!」との祈りを込めてビン・缶用のゴミ箱に空き缶を投げ入れる。
缶は見事な放物線を描いて目標にジャストミートした。幸先の良さを感じ、少し嬉しくなる。
「さあ、戦いの始まりだ」
自分に気合いを入れて救急救命室に戻った。
明晩の休みを獲得するために。
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