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第十章 第10話
後ろ髪を思いきり引かれながら、教授室を後にした。
彼の唇の柔らかさや熱…そして口中の粘膜の湿った温かい場所は天国だったな…と思う。もっと極上品の天国の場所はは知っているが。
救急救命室のスタッフ専用入り口からコソっと入る。ついつい彼と話していたくて時間を忘れていて…こちらの出勤時間を大幅にオーバーしている。
阿部師長が怒っている顔が目に見えるようだ。
予想に反して救急救命室は静かだった。処置室に患者さんは居ない。こういうのも珍しいが…どうやら、患者さんが搬送されていないらしい。
祐樹の姿を目敏く見つけた阿部師長は、ナース特有の素早い歩き方以上の速度で祐樹に近寄ってきた。
「遅い~!今は閑古鳥が鳴いているけれども、患者さんが来る時はどっと来るものなのだから、時間厳守!!分かった?」
そう言いながらも目は笑っている。
「スミマセン。少し心臓外科の方で外せない用事が…」
「ふーん?外せない用事ね…?どうせ、豪華な部屋で晩御飯を2人っきりで食べて来たんでしょうよ?」
祐樹もここまお見通しなら、下手に隠すこともないかと頷いた。
「ここじゃ何だから…あたしの個室に行こう」
そう言ってキビキビと歩き出す。遅刻という…しかも止むを得ないものではなくて教授とデパ地下の高級(だろう)お弁当を食べていたのが原因なので…逆らえない。
阿部師長の個室に入ると、彼女は早速煙草に火を点けた。祐樹もそれに倣う。
「香川教授が凄く色っぽくなったののは、田中先生のせいででしょうね」
その言葉に煙草の煙が肺から逆流しムセて咳をする。
「そういうリアクションは、心当たりが有ると見た。まぁ、田中先生がどんな恋をしていようとも、患者の命を奪うようなミスをしない限りはあたしには関係のないことだけれど」
「そういえば、杉田弁護士と昼話しましたよ。彼とは上手く行っているようですね…」
そう言うと煙草を灰皿に置いて彼女は真剣な顔をした。こんな顔を彼女が浮かべるのは、DOA(患者さんが死亡してからの病院到着)患者を何とかして助けるという時しか祐樹は知らない。
阿部師長は、驚いたことにDOA患者も多数蘇生させた経歴を持つ。
「それなんだけどね…向こうは私の非番に合わせてくれるし…仕事で疲れ切った私のために食事の用意や御風呂の用意をしてくれる…けどね。ホントにあたしを求めてくれているのかなって思うようになって…」
――求めるというのは「身体」だろうか?しかし、杉田先生と昼間電話した時に彼は随分楽しそうだったのに…と思う――
「杉田弁護士は、阿部師長のお身体が心配で…食事を作ったり、その他モロモロのことを手伝ったりしてくれているだけだと思います。それに、彼も…疲れ切った阿部師長をこれ以上に疲れさせないように、一線を踏み越えるのを耐えているようなことを言ってましたが…」
彼女の顔が安心したように笑顔になる。阿部師長も「いい年をした男女が――特に女が部屋に入れて何もなかったという件に拘っていたのだろうな…」と思う。それに杉田弁護士の性癖を知っているだけに、「女性ではダメなのかも?」とも心配するはずだ。
彼女を安心させるために、取って置きの話をすることにした。
「多分夏休みでしょう?『阿部師長が纏まったお休みが取れる時に旅行に誘って初めて…そういうコトをするのが今から楽しみだ…』そういった意味のことを仰っていましたよ。
彼女の頬が紅潮している。言って良かったな…と思う。
「医師がステった…という話を聞きましたが…」
「そうなのよね…五月病からかな?JRや阪急電車に飛び降り自殺患者が運ばれて来てね。しかも3人…よほど運が良かったのか、命には別状はなかったのだけれども…下肢切断とか、頭蓋骨陥没などで忙しかったのよね。鉄道自殺は怪我の範囲が広いので緊急手術も大変なのよ…」
「何故、鉄道に飛び込むのでしょうか?首を吊った方が確実で比較的楽に死ねますよね?」
日本の死刑は首を吊るという方法で執行されることを知っていた祐樹は素朴な疑問をぶつけた。日本では禁止されているが、オランダなどの積極的安楽死が認められている国――医師が注射をして患者さんの希望でその命を絶つこと――には「塩化カリウムを20ml注射」が一般的だ。
日本の死刑制度も「本人が比較的楽に死ねるために」と絞首刑にしている。
「いわゆる、発作的にホームから飛び降りたいと思う患者さんが居るの。そして、このご時世でしょう?会社でリストラに遭ったということを家族に知られたくないと思って定刻に出勤して、思い余って…というパターンらしいわ。それに鉄道自殺するタイプは、『社会に恨みを持っている』人間が選ぶ自殺方法だとどっかで読んだ。100年に一度の不況なんで、これから増えるかも…」
「脅かさないで下さいよ。ただ、香川教授にお願いして助っ人医師を回します。それと、阿部師長もお忙しくて、備品管理に手が回らないですよね。
ウチの入院患者さんで備品管理のボランティア希望の方がいらっしゃいます。と言っても、狭心症の患者さんなので、この戦場の雰囲気が彼にストレスを与えないと分かってからの派遣になりますが、阿部師長のご判断は?」
「まぁ、この部屋の特殊な雰囲気――血の臭いとか内臓の臭いとか――を気にしなければ、大歓迎だけど…。万が一狭心症の発作が起こったら、ニトロの点滴は腐るほど備蓄してあるし、心臓のカウンターショックも心臓外科には負けないほどの性能を持っているのを置いてあるから…でも、その患者さんはどうしてボランティアを?」
「名前を言えば誰でも知っている会社を身一つで大きくした方で…有能な後継者に跡を譲った時に狭心症が分かって…。ちょうど佐々木教授と香川教授の交代の時くらいに手術のために外科に回ってきたのですが…内科の内田講師の優れた投薬のせいで…。香川教授も『切らなくても大丈夫ではないか?』と仰っています。その方は、今までが激務だったそうで、病院のベッドに大人しく寝ているほうがストレスの溜まる原因と仰って」
煙を肺に大きく吸い込みながら阿部師長はしばらく考えているようだった。
「その患者さんの件は香川教授も了解済みなの?」
「ええ。一度、ここの現状を見せてから…ということで。その時は、私と内科の内田講師のどちらかが付き添いますし、ストレスを感じていないか血中濃度をモニタリングしますので」
「それなら、大歓迎よ」
彼女が嬉しそうに言った。
「そこで…そのステってしまった先生達は明日、勤務に戻れそうですか?」
一番気になる事を聞いた。
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