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第十章 第9話

「わざわざ有り難うございます」  そう言って軽くお辞儀をする祐樹を彼は少し心配そうに見た。 「もしかして、もう夕食を食べたのか…?」  彼は先回りをして心配する癖が有る。1人で悩みを抱え込む癖も…。 「実は、鈴木さんの救急救命室への助っ人を思いついたのが、ムンテラ(病状説明)の時の会話でして…。それから医局に戻って必死でレポートを書いていたので、食べる暇なんて有りませんでしたよ」 「そうか…それなら良かった。祐樹が私に気を遣ってくれて食べてくれるのかと思ってしまったので…」  そう言ってふんわりと微笑んだ。祐樹の好きな笑顔だ。  まぁ、彼が一番綺麗な顔をするのは行為の時だったが…。その考えを慌てて頭からデリートした。今はそんなことを考えている時と場所ではないのだから。  祐樹はお弁当のメーカーを知らなかったのだが、許可を得て開けて見ると上品で多彩なおかずが、色彩のことも考えて綺麗に作ってあった。その上、彩りの一つとして添えてある人参はツツジの花の形に切ってある。食べるのが勿体ない芸術品のようなお弁当だった。 ――さぞかし、値の張るものだろうな…――  いつも教授にたかってばかりの祐樹は恐縮した。このお弁当が一個いくらするか聞くのが怖い。祐樹が普段食べる○ブン・イレブンのお弁当とは桁が一つ違うだろうと思う。 「こんな高価なお弁当を用意して下さって有り難うございます」  応接セットの椅子から立ち上がり、深深と頭を下げた。その様子を教授は唇に笑みを浮かべて見ていた。 「いや…祐樹の部屋に居候させて貰うのだから、これくらいは…。食費とか光熱費とかはキチンと払うから…」  あくまでも律儀な彼の反応に苦笑を禁じえない。今は5月だし、光熱費といってもたかが知れている。食費と言っても、祐樹が救急救命室で夜勤をしている間は、教授が適当に自分でお弁当を買って来るか、食材を買ってくるかだろう。それなのに食費を貰うと、二重取りになってしまう。 「いえ、それは気にしないで下さい。それに、ウチにいらっしゃるのは星川ナースの件が片付くまで…ですので」  祐樹としては、もっと彼に居て欲しかったのだが…ただ、部屋に一緒に居ると、イケナイ願望が刺激されるのは事実なので引きとめも出来ない。何しろ部屋の壁が薄いのだから。 「………そうか?祐樹がそう言ってくれるのなら」  悄然とした口調だった。祐樹が真意を聞きだそうとする前に香川教授は気を取り直したように表情を平静なものに変えて、お弁当に箸を付けながら言った。 「先ほどの鈴木さんの件だが、『血中濃度のストレス変化について』は運の良いことに柏木先生の研究テーマだ。まぁ、彼の場合は『手術中』という限定された場合だけを研究対象にしているが…基本は同じだ。一度、鈴木さんを救急救命室に見学がてら連れて行くときに血液を10分毎に採取して、彼に検査してもらおう」  研修医の祐樹はまだまだ他人事として聞いているが、大学病院に残る以上は何らかの研究テーマを持たなくてはならない。柏木先生のテーマは寡聞にして知らなかったが、彼ならきっと手伝ってくれるだろうと思った。 「血の臭いや、内臓の臭いに鈴木さんがストレスを感じなければ良いな…」 「そうですね…。安部師長には私が話しを通しておきますが、北教授の方は宜しくお願いします」  一般人から見れば、食べながらの話題とは思えない話題だが、医師の世界ではこれが当たり前だ。たとえば証券会社の社員が休憩時間に社員食堂で「客に億の損害を与えた」と証券マン同士が話しているようなものだ。この程度の話題で食欲が無くなる外科医は居ないと言って良いだろう。  この辺が一般の社会人と違うところだろうな…と思う。 「分かった。北教授には私から言っておく。救急救命の様子はどうだ?」 「阿部師長曰く『ステった医師がいるので大変な人出不足だ』と」 「ああ、その医師は数日寝ていないな。不眠不休で患者さんの診察をし続けたに違いない」  彼も学生時代には救急救命室に入り浸っていた時期もあるので、内部事情には詳しい。 「もしかして、教授も経験されたのですか?」  案じる声が出てしまう。 「一回だけだが…。4日不眠不休で働いたことがある。その時はミスをしないように必死で、気が付いたら胃が食べ物を受け付けなくなっているし、眠いのに眠りには入れず呆然と座り込むしか出来なかった…」  教授が救急救命に通っていたのは学生時代のハズ。そこを突っ込む。 「高速道路で車10台が関係する交通事故が起こって、一度に患者さんが30人運ばれたことがある。そんな修羅場では医師免許の有無ではなく手の空いた者が手当てをした…もちろんバレるとかなりマズイが…。」  祐樹は一度にそんな数の患者さんを診た経験がない。ただ、学生時代から教授の外科学は完成していたのかと、今更ながらに感心した。  教授――と言っても購入したのは秘書だが――心尽くしのお弁当を食べ終えて時計を見ると、夜勤に行く時間を少し過ぎている。阿部師長が目を三角にして怒っている様子が目に見えるようだが…このまま、部屋を去るのも寂しい。 「夜勤を頑張れるようにキスして下さい…ませんか?」  その言葉に我に返ったように教授も時計を確かめて形の良い眉を顰めた。 「それは…いいが…」  教授も祐樹と同じペースで食べていたので既に食べ終わっている。 「コーヒーのお礼だ」  そう言って祐樹の腕を軽く掴んで立たせると応接セットから数歩離れる。  彼の方から背中に手を回して唇に唇を重ねてくれた。祐樹は舌を出し、彼の薄い唇をなぞると彼の閉じた唇が開き、中に迎え入れてくれる。舌を絡ませながら、つかの間の粘膜の熱の交換をした。彼の内部はどこも極上品だ。  名残惜しげに唇を離すと、二人の唇の間に銀色の糸が繋がっている。彼の頬も紅く染まっているのが扇情的だ。唇も飲み下せなかった水分で綺麗な水の膜が張っている。 「絶対明日は、夜勤から外して貰おう」と決意した。  杉田弁護士の言葉も検証したい。それ以上に彼の魂が直接感じられる場所に自分を挿れたかったので。

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