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第十章 第8話
目の前でレポートを読まれるのがとても恥ずかしかったので、実は大量に買い込んだ料理関係の本の中に「美味しいインスタント・コーヒーの淹れかた」という項目があったのを思い出す。豆から作る方法もインプット済みだが、まだ祐樹には荷が重そうだったので…。
熱湯をコーヒー・カップの5分の1程度に注ぎ、その次にインスタント・コーヒーの粉末を入れる。そして、50回だったか100回だったかは定かでないが…スプーンでかき混ぜる。念のため100回にした。その後、カップに普通の量の熱湯を注ぐというやり方だ。一番最初にお湯を入れ、カップを温めるとも書いてあったような気がしたのでそうした。
料理関係は彼の好みそうなレシピは頭にインプット済みだが、「コーヒーの淹れかた」はざっと読んだだけなので、合っているかは分からない。
無心にスプーンを回していると、波立った心が何故か落ち着く。立ち上るコーヒーの良い香りのせいだろうか?
取り敢えず、今日は彼の滑らかな素肌と鎖骨の上を観賞することは諦めて、救急救命室の勤務に行こう。そして、阿部師長に泣きついて…万が一彼女が許してくれたならば、火曜日にでも彼をRホテルに誘って…彼をもっと乱れさせて…本当のことを聞こうと決意した。
自分用には、これからの勤務のことを考慮に入れ、スプーン5匙の粉末を入れ、カップも温めず、お湯をぞんざいに注いだ。
二つのコーヒー・カップの載ったトレーを持ち、恐る恐る教授の執務室に戻る。
彼は、祐樹のレポートはとっくに読んだらしく、表紙部分――良く見たら、「文責・田中祐樹」と書いてある箇所だった――に右手の中指と人差し指を置いて、左手でこめかみの辺りをリズミカルに叩いていた。目は瞑っているので表情はあまり分からない。
黙って、教授用に淹れたほうのコーヒーを彼の前に置いた。
その音で我に返ったらしい。祐樹の方を初めて見て微笑んだ。さっきまではレポートに集中していたようだ。
「有り難う」
そう言って一口コーヒーを口に含む。
――味の方はどうだろう?――
固唾を飲んで彼の口元を見ていた。白いカップに薄紅色の唇が触れる様子がとてもエロティックと言えなくもなかったが。それよりもやはりレポートの反応とコーヒーの味がどうなのか気になる。
彼は一口飲んでから祐樹の方に視線を合わせた。それだけで鼓動が高まる。
まるで初恋の相手を見ているようだな…と祐樹は自分に突っ込みを入れるが、よくよく考えてみると、こんなにも本気で気になった相手は彼が初めてだ。そいいう意味では初恋と言えなくもない。
「これ、インスタントだろう?それなのに、豆から淹れたような味と香りがする」
思わず口が滑った…という感じの教授は、心配そうに祐樹を見る。彼は祐樹の料理の腕については半信半疑らしいので――もっとも、最初に振舞った手料理があんなザマでは、そう思われても仕方がない――「豆から淹れていたらどうしよう?」というかのような顔をしている。
祐樹は微笑んで彼に告げた。
「『手抜き料理の全て』とかいう題名の本に『インスタントでも美味しく飲める方法』が書いて有ったので試してみました」
彼の表情が明るくなった。失言ではないことに気付いたのだろう。
「本当だ…インスタントとは思えない味と香りだ…」
そう言って全部飲んでくれる。ただそれだけのことなのに、少し嬉しいと思う祐樹だったが。ただ、レポートのことは気になった。
「レポートは如何でしたか?」
単刀直入に聞く。
「祐樹らしい、斬新なアイデァで、とても良いと思った。専門書も網羅されている。及第点だな…」
そう言って満足そうに微笑んだ。
それまでは、教授の反応が不安で、コーヒーに口を付けて居なかった祐樹を目敏く見つけた教授は、「貰うぞ」と言って祐樹のコーヒー・カップを優雅な手つきで制止する間もなく奪い去る。そして、一口飲んだ後で、ポツリと言った。
「祐樹…私のコーヒーと味と香りが全く違うのだが。気のせいなら済まないが…もしかして作り方変えてくれたのか?私のために…」
飲まれた後だ、言い訳は出来ない。
「そうです。教授にはスペシャル・バージョンで、私のは普通に淹れました」
ありのままに告げると彼は俯いた。
「有り難う…」
そう言う声にやけに実感が籠もっている。2人を取り巻く空気が変わりそうなの気配を察知し、慌てて言った。
「それで如何ですか?レポートは」
「問題点が二つほど。救急救命は祐樹も知っての通り、北教授と阿部師長が緘口令をしけば問題はない。が、鈴木さんは、震災の時に遺体を見た経験があるだけなのだろう?ならば、熱傷(ヤケド)患者と、圧死遺体の筈だ。圧死遺体は見たあるか?」
「いえ、ないです」
「圧死は、人間の身体がこんなにも薄くなるのか?と思えるくらいに押しつぶされたご遺体だ。確かに悲惨は悲惨だが、医師を含め、皆が想像するご遺体とは全く違う。身体が平たくなるのが特長だ。そして熱傷患者の場合は、皮膚の表面が変化するだけで、内臓などは全く関係がない。救急救命室に行くと、知っての通り、開胸心臓マッサージなど、内臓や血の匂いで参ってしまう人も中には居る。鈴木さんもそうでなければ良いが…。ただ、発作が起こるかもしれない…というリスクだけを考えて病棟のベッドに縛り付けられているよりは、何かしら役に立つほうがQOL重視の考え方としては悪くない。
なので、補足として、鈴木さんを一度、長岡先生か内田講師のどちらかと、祐樹が付き添って救急救命室に行ってくれないか?その時、血液の血中濃度変化をサンプリングする」
「つまり、ストレスを感じているかどうか、血液で測るやり方ですね」
「そうだ…。心臓外科の祐樹と内科のどちらかの先生が居れば不測の事態も対応出来るだろう。もちろん私の手術の無い時というのが前提だ。それで問題がなければ、北教授に正式に申請してみる。
ただ、まさか本当に持って来るとは…」
彼は眩しげな眼差しで言うと、ロッカーの中から阪○百貨店の紙袋を取り出した。
「これを2人で食べようと…ランチタイムに入る前に秘書に頼んでいた」
どうやら中身は所謂デパ地下の高級弁当らしい。空腹だったことに今更気付き、彼の思いやりに感謝した。
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