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第十章 第7話
祐樹は取り敢えずいつもと同じような微笑を苦労して作った。彼を眼前にすると、杉田弁護士の言葉が脳裏を駆け巡って、とても平静ではいられないので。
幸い微妙な変化は彼には気付かれなかったようだ。
「これから夜勤なのだろう?大変だな…。私も手伝いたいのだが…。」
「ダメですよ…キチンと食べて、寝て下さい。私がチェックしに戻りますよ」
本当に救急救命室に来そうな勢いで教授は言う。阿部師長なら大歓迎をするだろうが…これ以上彼の疲労を蓄積させたくはない。星川ナースの件もまだ解決していない今、彼にこれ以上の負担を掛けさせたくはなかった。体力は多分、祐樹の方があると自負しているので…。
「当直をしてから通常勤務の合間に戻って来るのか?」
「貴方を1人にすると…体力的に無茶をしていないかと…私も心配ですから。どうせ家は近いのでシャワーを浴びがてら朝戻ります。その時に夕食と睡眠をキチンと取ってらっしゃるか、確認します」
「祐樹は意外と面倒見がいいのだな…。過労で倒れてから今まで散々迷惑を掛けたのに…。
まだ心配を?」
今日の彼は何だかしおらしい。いつもは祐樹が先回りして何でもしてしまうので、余計にそう思うのかも知れないが。
彼は執務机から立ち上がり、幾分早足で祐樹の方に近寄って来る。
座れとも言われなかったので、祐樹は広い教授室の入り口辺りで立ち止まっていた。教授の磁力に巻き込まれたように、祐樹の足が勝手に彼の方に進む。部屋の真ん中で、2人の身体が触れ合った。
我慢出来ずに、手に持っていたレポートを床に落とす。パサリという音が静寂に支配された教授室にやけに響く。
彼の身体に手を回し、耳元で囁く。
「逢いたかったです、切実に。貴方は?」
その言葉に彼が驚いたように身をすくめた。何かマズいことでも言ってしまったのだろうか?それとも内心の動揺が彼に分かったのだろうか?
正直、杉田弁護士の推論は論理展開も見事だったし、反論の余地はない。だが、論理など恋愛感情の前では何の役にも立たないことを、祐樹は腕の中に居る人を通じて学んだ。
「私も…」
そう小さく動く彼の薄い唇を塞いで黙らせる。湿った吐息と唇と舌が絡まりあう水音が専門書に囲まれた重厚な部屋には不似合いで…だから余計に煽られる。
「舌を大きく唇の外に出して下さい」
刹那の躊躇の後で、彼の唇の中に上品に収まっていた舌が外気に晒される。
両腕は祐樹の背中に回ったままだった。
舌の表面をゆっくり尖らせた舌で辿っていく。舌も性感帯は存在する。彼が身じろぎする箇所を重点的に舌で突付く。唇と頬で感じる彼の吐息がいつもより熱いことを確認した途端、現金な祐樹のモノがはしたなく反応しそうな予感がした。
――マズイ…。このままでは押し倒してしまいそうだ――と思う。
職場でそういうコトを嫌う教授の節度有る態度はとても好感を持てる…が、一旦火が点くと、暴走してしまいそうになる。
それだけは避けたい。彼の意志を尊重して。
断腸の思いで舌を自分の口の中に戻す。
「う…んっ」
鼻にかかった彼の咽喉声が壮絶に色っぽい。
彼の表情を盗み見ると、恍惚半分、不満そうな顔半分といったところだろうか?
「これ以上するとね…こっち…に収まりがつかなくなります…流石に勤務前はマズいでしょう」
そう言って、彼の細い手首を祐樹のモノに誘導する。
二回目の交情で幾分か慣れたのだろうか?指で触っている。嬉しくてもっと元気になりそうなはしたない下半身にこれ以上触られるとかなり危険だ。もともと彼の指の長さや形は祐樹の好みなので尚更。
少しの間祐樹自身を触診するように触った彼は、我に返ったのか慌てて手を離した。頬は白皙の顔にも関わらずかなり上気している。その紅色の頬にはえもいわれぬ色気を放っている。が、彼の表情は祐樹の反応を心配そうに見ている。
――やはり、慣れていないのか…――としみじみ思った。が、ここでそれを聞くわけにはいかない。
やはり、杉田弁護士のアドバイス通りのことを近々実行してみようと決意する。
「とても名残惜しいのですが…」
未練が声で分かったのだろう。彼は満足そうに微笑んだ。そして、数歩後ろに下がる。彼の視線が床に落ちた。
「何だ?これは?」
祐樹が先ほど落としたレポートに目を向けて聞いてくる。切り替えが早い彼らしく、その表情には艶っぽさの余韻しか漂っていなかった。
「指導医のご意見を承りたく思いまして…レポートです」
「祐樹…あの言葉を本気にしたのか?」
本気にはしていなかったが、教授の驚いた顔を見ていたくて。
「ええ。光栄にも教授自らが指導なさって下さいますので、この機会に更なる研鑽をと思いまして…」
「そうか」
そう言う教授の笑顔は先ほどのような艶っぽさは消えている。切り替えが早いのも外科医としては長所だ。
「拝見させてもらう」
そう言って床に落ちていたレポートを大切そうに拾い上げ、応接用のソファーに座って真剣な表情で読み始めた。
自分の書いたものを目の前で読まれて居心地が悪くなった祐樹は、「コーヒーを入れて来ますね」と秘書のエリアに駆け込んだ。
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