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第十章 第6話
「いえ、どうやら容態は安定しているようですね…今すぐ手術という程度ではないと思います。あくまでも指導医の香川教授のご判断を仰がなくてはなりませんが…」
カルテを見て客観的に答えると、鈴木さんは安堵の吐息を付いた。
「私も仕事では色々修羅場は経験して来ました。ヤクザ紛いの借金取りが押し寄せたりね。ただ、自分の心臓のこととなるとやはり怖いです…特に手術は…。それに内田先生は『田中先生と相談しなければ自分が口を出す立場ではないので』としか仰らないので」
それはそうだろうな…と思う。彼は外科に移されて来た患者さんなのだ。内田先生は講師という肩書きで、いくら自分よりも上だと言っても内科所属なので口を出せる筋合いではない。
「大学病院というのも、基本的にはお役所と同じで、縦割りなんです。外科は外科、内科は内科と独立しているのです…内田先生もその点を慮ったのでしょう。ただ、カルテに『手術は再考を要する』と書いて有りますよ」
「そうですか」
笑った顔はとても修羅場をくぐって来た会社の創業者には見えない。人の良さそうな顔だった。まぁ、だからこそ取引先や部下からも信頼されるのかも知れないが。
『手術をする』というプレッシャーもストレスとなる。この病気にはストレスは大敵だ。多分、香川教授もそれほど急いで手術をしない程度の数値が出ている。当分は投薬治療で大丈夫だろう。
「そういえば、偶然、部下の方にお会いしましたよ」
黙っていても、多分彼は見舞いに来るだろう。その時に話題にされるのは目に見えている。それならば先に言っておくほうが無難だ。
「そうですか?でも先生は何故私の部下だとお分かりになられたのですか?」
「先方がそう名乗られて挨拶にわざわざいらっしゃったので…」
「ほう?誰だろう?」
「私も名刺を戴いたのですが、その名刺が手元にないもので…。患者さんだったら覚えているのですが…」
「それはそうですね…見舞いの客1人1人を覚えていろという方が無理な相談です」
「その方も鈴木社長のことを宜しく頼むと仰られていました。人望がお有りになるようですね…」
そう言って笑いかけると、鈴木さんは照れたように笑った。
「いえ、会社を始めてから死に物狂いで…何でもしましたから。実はこの病院に入院してから手持ち無沙汰で困っています」
それはそうだろうな…と思う。狭心症の患者さんは発作の時は酷い苦しみだが、それ以外の時は――特に鈴木さんの容態では――退屈なのだろう。この大学病院でもQOL(生活の質)が問題になっている。彼は終末期医療の対象者ではないが…。QOLは基本的には終末期医療の時に問題になるが、香川教授は、「『病院が患者さんにストレスを与えないような設備作りをしているのがアメリカの病院だ…』と聞いたことがある。それならば鈴木さんが病室のベッドでイライラしてストレスを溜めているよりも、必要とされる場所で体調を慮って自分の好きなことをする方がストレスは溜まらないかもしれない」
ふと名案を思いついた。
「そんなに退屈ですか?それでは自発的にボランティアをするというお気持ちにはなれません…よね?」
一応、否定形で問いかけた。後々問題になると自分はともかくとして、教授が困る。
「どんなボランティアですか?」
「その前に…血を見るのが怖いなどといったことは?」
「いえ、それは全くないです。阪神淡路大震災の時は、神戸の長田区に居ましたので、ボランティアで悲惨なご遺体を多数見た経験もあります」
神戸の長田といえば、救急救命室の北教授も医療に参加した場所ではなかったか?とふと思った。
「救急救命室では人が足りないので…私もそちらに出向していますが、備品管理の仕事がどうしても後手後手に回り、困っているのですが、社長の鈴木さんですから…今更事務仕事は、流石に…」
会社社長に頼むべき仕事ではなかったと口に出してから後悔した。どうも杉田弁護士と電話で話してから調子が狂っているようだ。確かに救急救命室では、医師がカルテの記載をする暇もなく次の患者が運ばれて来ることが良くある。香川教授がいつか助っ人に入った時のような真似はどの医師も不可能なのだから。
「いえ、もし私でお役に立てるのなら、喜んでさせて戴きます。万が一、私に発作が起こったとしても、救急救命室だったら対応も迅速に出来ますよね?」
「それは…そうですね。あちらは独立した医療システムですから…」
救急救命室の修羅場で心臓にストレスが掛からないのであれば、あたら有能な人材をムゲにベッドに縛り付けておくよりはいいかも知れないと思った。
教授のレポート提出にこのテーマはどうだろう?どうせ、五時半には教授に逢いに行くことになっている。レポートの件は彼の口実だろうが、持って行くに越したことはないだろう。
「では、その件も含め、教授に相談してみます…」
「ええ、是非前向きに検討して下さいとお願いして下さいませんか?どうも、ベッドにじっとしていると焦燥感が募ります」
入院時、手術を考えられた患者さんだった。が、有能な内田医師の投薬のせいだろう、容態は安定している。まるっきり不可能な話でもなさそうな気がして来た。
医局に戻り、教授も納得するだけのエビデンス付きでレポートを書こうとカルテと専門書の両方を首っ引きで調べた。素人はネットの方が早いと思うだろうが、実は掘り下げ方が全く異なる。却って集中している方が、今の祐樹には都合が良かった。下手に集中力を途切れさせると心は掻き乱されるだろうから…教授の件で。
やっとの思いで五時半までにプリントアウト出来た。ホッチキス止めをしたレポート持参で教授室に向かった。
「田中です。入室して構いませんか?」
ノックの後、そう言うと中から涼やかな声で応えがあった。一呼吸して中に入った。彼は笑顔で迎えてくれる。秘書室を指差して不在かどうか確かめる。彼は形の良い顔を横に振った。どうやら彼女はもう帰宅したらしい。
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