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第十章 第24話
「この中で手術の一部始終を見学していた方はいらっしゃいますか?」
ドアの前でそう声を掛けた。数人が驚いたように振り返る。その中に一際異彩を放つボサボサ髪の白衣姿があった。
「もう怪我はいいのかい?ああいう時は手で庇うんじゃなく腕で受け止めるんだ」
「桜木先生…見学していらしたのですか?」
桜木医師――悪性新生物いわゆる癌の手術の手技はこの大学一との呼び声が高いが、出世には興味がなく、手術室のヌシと言われている――彼が祐樹の怪我を知っているということは一部始終を見学していたに違いない。院生や学部生よりも当然手術経験は豊富だ。
その上、そこそこの発言力は持っている彼が手術を見学していたとは幸運だった。
「今朝の手術予定の患者が容態急変で中止になった。昼からも手術が入っているから仮眠を取ろうかとも思ったんだが…どうも爆睡しそうな予感がしたんだ。だから香川教授のパーフェクトな手術でも見て目覚ましをしようかと。で、手術開始から見てた」
他の見学者達も祐樹の手術着姿を珍しげに見ていた。他にも証言をしてくれるかもしれないと扉の前に立ったまま、最前列の席にキチンと座っている桜木先生と話していた。当然声は大きくなる。
そういえば、初めて桜木先生が香川教授の手術を見学していた時はだらしなく座って見ていたな…と半ば懐かしく思い出す。
他の見学者の顔を見る。祐樹の知った顔は1人も居ず、しかも院生か学部生のような感じだった。――といっても、医学部は他の学部と比較すると学生の平均年齢は断トツで高いのだが――。
「怪我は、大丈夫です。咄嗟に私の手よりも教授の手を守らなくてはならないと思ったものですから。教授の手にお怪我をさせるわけにはいきませんから」
「流石に、香川教授の懐刀と呼ばれているだけのことはあるんだな。で、道具出しの星川ナースの件で事情聴取をしたい…違うか?」
外見は教授と全く異なるが、自分の手技に対しての取り組みだけは彼と教授は似たモノがある。きっと教授と同じ視点で手術を俯瞰していたに違いない。
「そうです。懐刀と呼ばれるのは光栄ですが、私などはまだまだです」
「そうか?咄嗟に外科医の生命線である右手でメスを受け止めるだけの度胸があるのは大した根性だと思うが。それに怪我をして手術室を去った後、教授の手技はいつもの冴えを失っていた…余程、気になっていたに違いない。まぁ、必死で集中しようとしていたがな」
白髪が目立つボサボサ頭に無精ひげ…白衣を着ていなければ医師には見えないだろうが、その手技は確かだ。齋藤医学部長のライバルである内科の今居教授が、医学部長の留守を狙って香川教授を教授会で吊るし上げの画策をした時も彼の実力を買って審判役に指名したくらいなのだから。
しかし、祐樹の怪我は教授から見ても大したものではないと分かっていたハズなのに、桜木医師が手技の達人であるとはいえ、彼にも分かってしまうくらい動揺したというのは俄かには信じがたいが。
「教授の手技はそんなに乱れていましたか?」
「ああ、見学室から見ていても良く分かった。手術室の人間はもっと分かったハズだ。特に麻酔の友永先生は今や香川教授の専属だ。彼は専門的な手技は分からないとは思うが、慌ててどこかに院内PHSを掛けていたな。彼があそこまで取り乱すのも珍しいんだぞ」
どんな風に教授の手技が動揺していたのか気にはなったが、今は証人を控え室に呼ぶ方が優先順位は高い。
「先生は、星川ナースがメスを逆さまにして執刀医に渡した時のことを御覧になられましたか?」
「もちろん、見たさ。今日の星川君は始めからおかしかった。不審に思って教授の手技と星川君の行動をずっと目で追っていた」
桜木先生が見学していて下さって本当に良かったと思った。
「その時の彼女の様子を覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんだ。というより、手術が始まって、星川君の様子がおかしいことが分かり、思わず独り言を漏らしていた。『なぜ、あんな動きをするのか?』とか口に出していたし…彼女がいったん考えてから、メスの向きを変えたのも見ている。俺が『あれ』っと思わず叫んだので、他の皆も注目した」
そう言うと、数人の院生だか医学生だかは一斉に頷いた。
「では、皆さんも星川ナースの件は見られたのですか?」
一番年かさの見学者が言う。
「心臓外科を志す人間として――今日の黒木准教授の講義は単位を取得済みのものでしたから…最初から見ていました――優れた手術はなるべく見たかったものですから。すると桜木先生が最前列に座られて…色々と呟かれたものですから…皆も香川教授の手技だけでなく星川ナースの一挙一動を見ていました。私も星川ナースが一回メスを見てから逆に持ったので『おかしい』と思いました」
祐樹は自分を眩しげに見る院生らしい学生に名前を聞いた。
「田中先生ですよね…いつも助手を務めてらして…香川教授のサポートをする姿に憧れていました。時々、教授に任されて縫合をなさる時は、どうして絹糸があんなに早く結べるのだろうと尊敬していました。あ、申し遅れました。六回生の久米晃一と申します。専攻は心臓外科です。以後お見知りおきを」
真面目そうな感じの久米君は祐樹のことを買いかぶっているようだ。まぁ、それは良いとして、この2人を証人に連れて行けば問題ないだろう。
「桜木先生は午後の手術でお忙しいと思いますが、その前に少し香川教授のために星川ナースが『故意に』メスを逆さまに渡したことを本人の前で仰って下さいませんか?」
彼は職人気質の人間だ。味方に付いてくれれば良いが頑固なところもある。なるべく腰を低くして頼む。
「ああ、今日の手術は星川君のせいで滅茶苦茶だったからな…。香川教授のエレガントでブラボォな手技が見られなくて俺も腹立たしい。それに以前の教授会で香川教授の弁護をするのを今居のおっさんに邪魔された。その時の借りを返す良いチャンスだ」
眠くて…と言った割には機敏に立ち上がり、祐樹の場所まで歩いてくる。
「あ、私もお供させて下さい」
久米君が慌てて立ち上がる。
さて、星川ナースへの反撃開始と行こうか…と祐樹は見学者が居たことを――それも桜木先生だったことを――密かに神に感謝した。
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