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第十一章 第1話
有力な目撃者である桜木先生と院生の久米君を連れて控え室に戻った。
そこには清瀬手術室師長も青ざめた顔で座っていた。星川ナースは相変わらず怒りに満ちた表情をしていたが、祐樹の後ろに立つ桜木先生の顔を見て、表情を変えた。
「桜木先生…手術を御覧になっていたのですか?」
黒木准教授が喜色を浮かべている。ポジション的には准教授である黒木先生の方が上だが、桜木先生の手技にはこの大学の外科医ならば一目も二目も置かれているらしい。内科の今居教授までもが彼の手技の確かさを信頼しているということからもそれは分かる。だからこその敬語だろう。
「黒木先生、お久しぶりだな。まぁ専門が違う上に、親睦会なんぞに行っている暇がねぇから顔を合わせる機会はないが…。ああ、見てた。一部始終」
彼の傍若無人さには慣れているようで、黒木准教授は温和な表情を崩さない。
「久米君も見学していたのかね…。熱心でなかなか感心だ」
手術で多忙を極める教授に代わって学生や院生の指導をしている黒木准教授は当然、心臓外科の院生の久米君も知っていたようだ。
久米君が恐縮したように頭を下げて部屋の一番隅に寄った。黒木准教授は桜木先生に向かって話しかける。
「それは幸甚です。それで、どうお思いになられましたか?」
黒木准教授も、星川ナースの道具出しのタイミング外しは経験している。だから桜木先生に先に話させたほうが清瀬師長も、そして星川ナースにも効果的だと踏んだのだろう。
「最悪だな…あれなら手術室の新人ナースの方を俺は迷わず指名するね」
ぶっきらぼうに言い放つ桜木先生に、清瀬師長はさも意外そうな顔をする。
「しかし、彼女は、メスの件は無意識だったと…。それに星川はウチの看板ナースです」
「ああ、それは知ってるさ、手術屋の俺が手術室のナースと縁が深いことは清瀬さんだって知っているハズだ。だが、最初から星川の道具出しは不審な点ばかりだった」
桜木先生の言葉に部屋に居る全員が耳を傾けた。黒木准教授は、「よくやった」という視線を祐樹に――それは多分、こんなにも有力な目撃者を連れて来られたな…という意味だろう――注いだ後に、桜木先生を信頼に満ちた目で眺める。
「不審な点とは?」
「俺も手術の用意があるので手短に言うが、今回の香川教授の手術開始からずっとタイミングがランダムにずれていた。と、思えばキチンと手渡されていた時も有って…俺はその落差が気になっていた。で、その相違はどこにあるかを観察していたのだが、香川教授が星川を見た時は咄嗟に反射神経で手渡しているのではないかと演繹した。その仮定で眺めて見ると、やはりその仮説が正しいように思える」
ああ、そうだったのか…と祐樹は思った。柏木先生までもが「教授の雰囲気が変わった」と言っていたのだから、星川ナースも香川教授の眼差しを見てしまうと我を忘れて本来の反射神経で道具出しをしてしまったのだろう。確かに今日の教授の怜悧で綺麗な瞳にはその位の威力はありそうだ。
何となく感じていた違和感を第三者として観察していた桜木先生は解析してみせたのだなと。
「ウチの星川の反射神経の良さは桜木先生もよくご存知のハズです」
あくまでも部下を庇おうとしてか、清瀬師長は食い下がった。
「ああ、良く知っていたさ。逆に今日の手術では反射神経で動いていなかったことは、星川君と組んで仕事をしていたことの有る俺には良く分かってしまったが、ね…。道具出しには反射神経ではなく頭脳で取り組んでいた」
「そ…そんな…馬鹿なことが……」
清瀬師長が弱弱しい声で言う。桜木先生は手術屋と呼ばれるほどに手術にしか拘らない。まるで頑固な職人のように。そのことを手術室のナースも良く知っているのだろう。
星川ナースはまだ挑戦的な眼差しで辺りを睥睨していた。だが、その瞳の中には動揺も垣間見られるが。
「それで、今回の問題点のメスが逆さになった件は御覧になられましたか?」
この場で一番ポジションが上の黒木准教授が言った。
「もちろん、見てたさ。ずっとハラハラしながら執刀医と星川君を見てたのだから、な、そこの院生」
イキナリの指名に久米君は驚いたような顔をしながらも落ち着いて答える。
「はい。桜木先生――と言っても、その時は御名前を存知上げませんでしたが――は、まるで野球かサッカーの試合の観戦でもしていらっしゃるようにイチイチ声をお出しになるので、見学室に居る皆は香川教授と道具出しとを見比べながら見学を余儀なくされていましたので…。何故あんなタイミングで出すのかとお怒りに…」
少しハタ迷惑な感じがするが、桜木先生らしいエピソードだった。今日の見学者は香川教授の華麗なメス捌きではなく、桜木先生の怒りの声に注意を払わざるを得なかったのだろう。
「あの時は一回メスを取り上げて、一瞬見た後で逆さまにしたのをハッキリとこの眼で確かめた」
「一瞬見た」という言葉でその部屋に居た祐樹と久米君以外の人間の動作が止まった。
「ウソよ。私はメスを見ずに教授に渡してしまったのだから」
強張ったキツイ口調で星川ナースが言う。
「いや、あいにく手術屋の俺は動体視力の良いんだ。それに記憶力もね。あんたは一回はっきりとメスを見てから教授に渡した」
「動体視力は私だって良いのよ…医師のあなたよりも、もしかしたら優れているかも知れないわ。その私がハッキリと主張します。見てはいません!」
「いや、見た。俺はハッキリと主張出来る。どこででも、誰にでも」
「あなたは医師だから…研修医とはいえ、医師の田中先生に怪我をさせた私に対して私怨からそう主張しているのだわ。医師同士の連帯の深さからかしら?」
あくまでも屈しない星川ナースの往生際の悪さには呆れるばかりだった。どうにかしなければ……と思う。
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