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第十一章 第2話

 今、一番解決しなければならないことは何かを考える。考えるまでもないが、星川ナースを教授の手術から外すことだ。  星川ナースは教授の手術だけを標的にタイミング外しをしている…それだけで許しがたいことだ。まぁ、多分明日になれば杉田弁護士からの金融機関からの開示請求の結果が届くので、交渉の切り札はもう一枚有ることになる。  祐樹自身の怪我は、教授のあの奇跡のような手技を生み出す白くしなやかな手が無事だったのでそんなには気にしていない。むしろ、祐樹が盾になれたのを誇らしく思う。万が一教授の手の腱でも切っていたら…と思うと背筋が凍る思いだが。   桜木先生と星川ナースの激した口調の攻防をただ見守っているだけの黒木准教授に目配せをして口を開いた。――今から交渉しますので黙っていて下さいという気持ちを込めた眼差しをしたが――黒木准教授が分かってくれたかどうかは分からない。 「つまり、医師だとお互いの庇い合いをするので信用できないと言うことですね?」 「けっ、俺がそんな甘っちょろいコトするかよ。手術は真剣勝負だ。上手い者が勝つ。庇い合いなんぞ興味はねぇ。医師だからとかナースだからとかは全く関係ない」  吐き捨てるように桜木先生は仰った。――仰った…という尊敬語が不似合いな口調だったが――  桜木先生の手術に対する職人気質を知っている祐樹は、もし香川教授が手術ミスをしてしまったとしたら――この仮定は想像するだけでも抵抗があるが――桜木先生なら断固として主張するだろう。たとえ齋藤医学部長がもみ消しにかかったとしても。そういう人間だと…短い付き合いだが、孤高の手術職人といった感じの人間だと思う。 「そうよ。医師同士、馴れ合いやミスの隠蔽がどれほど有るか、私は嫌と言うほど知っているもの」 「では、医師ではない人間、しかも利害関係が全くない人間の証言はどうですか?馴れ合いの意味がありませんが?」  桜木先生との口論で感情が昂ぶっていたのだろう。冷静な普段の彼女なら祐樹の誘導尋問めいた質問には慎重に答えたハズだったが。 「そうよ…先生なんて、皆善人ぶっているだけのただの偽善者だわ。特に外科の執刀医なんてね。道具出しの私たちなんて人間扱いしていないんだから。患者さんだってそう。成功した執刀医には金一封も包むものだけど、ナースなんて眼中にないのよ。空気のように無視されるだけの存在なのよ。どれほど神経をすり減らしても報われることなんかないのよ」  顔を怒りで紅潮させてそう言い切った星川ナースを清瀬手術室師長が茫然自失の顔つきで眺めている。信じられないことを聞いたといった感じだった。 「誤解しておいでのようですが、香川教授は金一封など一切受け取っておられませんよ。手術も特診患者さんを優先させたこともありません。教授が手術の優先順位を決められる基準はただ一つ、どの患者さんが一番手術を必要としているかです。特診患者さんが後回しにされたケースは枚挙に暇がない…そうですよね、黒木准教授?」 「ああ、それは確かだ。教授は着任以来、容態の悪い患者さんから手術を行ってきた」  怒りの矛先をかわされて星川ナースは次の言葉が吐けない。すかさず言った。 「どうも、星川ナースは医師に対して偏見がお有りのようですね。金一封が欲しくて手術をしていると…」  桜木先生が、「けっ、そんなことで手術なんてやってられっかよ」と呟くのが聞こえたが敢えて無視をさせて貰う。 「そうよ。皆お金が欲しくてやっているのよ。特に教授とか執刀医はね」  祐樹を見る目つきが燃えるようだ。彼女は金銭的に苦労していたと聞く。そこに付け込まれたのだろうか? 「では、まだ月謝を払っている立場の人の意見は信憑性がありますか?お金は全く絡みませんし、利害関係もない」  祐樹の意図を理解したのか、彼女は口を噤んだ。が、反論するだけの材料はないようだ。 「久米君は、院生だったね。で、桜木先生とも面識がなく、また、香川教授も直接話したこともない?」  教授とかなり長い時間一緒にいる祐樹が知らないのであれば、教授との接点が有った可能性はかなり低い。もし、直接話したことがあればマズイな…と内心では危惧しながら質問した。 「ええ、桜木先生とは、今朝初めて見学室でご一緒しただけです。香川教授の手術は何度か拝見させては戴いていますが、畏れ多くてお話しなどはとても…」 「それでは聞きますが、今日の…星川ナースのメスのアクシデント…あれをはっきりとその目で見ましたか?」 「はい、見ました」  聡明そうで明晰な口調だった。このメンバーに囲まれて幾分身体を強張らせていたが。 「桜木先生の主張と違った印象を?」  あからさまな誘導尋問だと清瀬師長も納得しないだろうと、最低限のことを聞く。 「いえ、オレ…いえ、私もこのナースさんが一回…ほんの一瞬ですが…メスを見てから執刀医の香川教授に渡そうとして、田中先生が止めに入ったのをはっきりと見ていました」 「これだけの証人が居て、必要書類を完備すれば、リスクマネンジメント委員会に提出出来ますよね?黒木准教授?」  意味ありげに彼の方を見て言った。今度は、言外のメッセージに気付いてくれることを願いながら。准教授も祐樹の意図を汲んだようだ。厳かな顔をして言う。 「もちろんだ。故意のミスなのだから…。教授権限ではなく准教授権限でも報告書を提出出来る」  その言葉に顔色を一番変えたのは清瀬師長だった。 「それは困ります。あそこに案件が行くと全て委員の知るところとなるので…。業務も滞りますし…」 「でしたら、師長権限で、香川教授の手術から星川ナースを外して戴くということで手打ちにしましょう。   今回は被害者である私が責任を持って教授に掛け合いますから」  夜叉のように顔を歪めた星川ナースと、ホッとした表情の清瀬師長の表情が対照的だった。  ドアが慌しく開き、珍しく額に汗を滲ませた手術着の教授の姿が見えた。室内を一瞥し、祐樹を見詰める。焦った様子ながらも室内に薫風が吹き込んだような感じだった。

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