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第十一章 第3話

 彼はいつもの彼らしくなく、どこか落ち着かない表情を浮かべていた。が、室内を一瞥すると視線は桜木先生に注がれた。 「正式なご挨拶が遅れまして申し訳ありません。先生の手術は学生時代にとても感動したことを覚えています。専攻を変えようかと思ったくらいです」  深々と桜木先生に頭を下げていた。彼が学生時代に憧れていた手技の持ち主と直接対面したらしい。  もっとも、大学病院は縦割り社会だ。同じ外科といえども専門が違うと滅多に会えない。積極的に会おうとしない限りは。それに、相手は手術室のヌシだ。大学病院での出世には興味がなさそうなのでより一層、会う機会はないだろう。  桜木先生はいささか面映いような表情を浮かべる。彼のこんな顔は初めて見た。いつもはふてぶてしい表情を崩さない桜木先生だったので。 「こちらこそ、挨拶が遅れてすまない。ただ、時間の許す限り手術は拝見させてもらっていた…」  香川教授は意外そうな顔をして桜木先生を見た後で、祐樹のほうに心配そうな視線を投げる。相手の顔を真っ直ぐに見て話すいつもの彼とは違っていた。  桜木先生の方もいつもの口調よりは丁寧だ。お互い相通じるものがあるのだろう――手術に全てを賭けているという点で――。 「だが、今回の手術は少し戴けなかったな…道具出しの星川ナースの件で動揺したのは分かるが、明らかにいつもの華麗なメス捌きが鈍化していた。他のことに気を取られていては執刀医としては失格だ」  桜木先生はいつものようにぞんざいな言葉遣いをしているわけでもない。どちらかと言えば後輩を諭すといった感じの口調だったのだが。 「まだまだ未熟で…大変お恥ずかしいところをお見せして申し訳なく思います。ご助言、真摯に受け止めます」  全く畑違いの分野の第一人者である麻酔医の友永先生まで察した教授のメスの狂いとは?といささか心配になる。 「まぁ、俺だってメスの狂いはある。ただトータルで成功すれば…それで良い。再鼓動はしたのだろ?その様子だと」  再鼓動していなければ彼がこの部屋に来ることは出来ないだろう。予想以上に桜木先生は香川教授の手術を見学しているのだなと思った。手術室からは注意しないと見学室の様子は窺えないのだから、当然と言えば当然なのだが。 「はい、お陰さまで…何とか成功しました。しかし、先生は何故ここにいらっしゃるのですか?」  今までの状況を全く知らない教授の質問は言われてみれば当たり前のものだったが。 「私から説明します。麻酔医の友永先生から院内PHSで緊急連絡があり」  敏い彼だ。黒木准教授のその言葉だけで状況を察したのだろう。 「皆様にはご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます」  彼は律儀にも院生の久米君にまで頭を下げている。久米君は周章狼狽の体だったが。もちろん、手術室の師長である清瀬ナースにも。星川ナースは当然のように無視をしていたが。  教授を見詰めていると、彼の瞳は祐樹の手の動きをこわごわ見詰めていることに気付いた。  この席での祐樹のポジションは、久米君の上くらいだろう。口を挟んでいいものか迷ったが、やはり止めた。その代わり、包帯で包んだ手をひらひらと動かした。  彼の視線が途端に柔らかくなる。余程気にしていたのだろうでと思うと何だか嬉しい。 「手術室を代表して教授に申し上げるご無礼をお許し願いますか?」  清瀬師長がそう切り出した。 「ええ、もちろんです。手術は執刀医のみでは不可能です。麻酔医や病理医…そしてナースの皆様や検査技師の皆様のお力をお借りして初めて成り立つものですから」  いつもの彼の口調だった。桜木先生と話している時は、どこか心ここに有らずといった風情だったのだが。ただ、それは普段教授と接する機会が一番多い祐樹だからこそそう思っただけで、他の人間は気付いていないようだ。 「そちらの田中先生を故意かどうか――いえ、桜木先生や院生の久米君の証言から私は故意だったと思っておりますが――は後ほど本人に確かめてみますが、それでも、ミスが有ったのは事実です。黒木准教授と田中先生は有り難いことに『ウチの星川を教授の担当から外すのならば、リスクマネンジメント委員会にこの不祥事は報告しない』と仰って下さいましたが……教授ご自身はどうお考えなのかを是非ともお聞き致したい所存です」  緊張しているのか、幾分切り口上の清瀬師長に、いつもの温和な表情を浮かべた教授は言う。 「私はそれで構いません。何しろ実務は黒木に任せてありますので、私は追認するだけですから。ただし、ウチのスタッフに心臓外科医としての医師生命に関わる怪我を負わせた場合は、容赦しませんが」  彼の壮絶なほど冷たい瞳が印象的だった。清瀬師長は自分がメスで切り裂かれたようにビクっと身体を震わせたほどだ。星川ナースも、身体を硬直させている。彼に見詰められて。  冷たい瞳の中に瞋恚の炎が舞っているような眼差しだった。――氷に閉じ込められた火の瞳――それは祐樹が初めて目にするものだったのだが。それはそれでとても綺麗だった。 「もう用事は済んだよな?俺は手術があるから…そろそろ失敬するよ」  桜木先生が時計を気にしている。  彼の瞳からは炎の輝きが消え、いつもの怜悧な眼差しに戻った。 「アドバイス、肝に銘じます。見学して下さって有り難うございます。先生に呆れられないような手術をしたく思いますが・・・まだまだ未熟なもので、ご叱責などがございましたらご指導ご鞭撻をお願いいたします」 「指導なんて、畏れ多くて出来ないが・・・いつものブラボゥな手技を楽しみにしている」  そういい残して桜木先生はひらりと身を翻して部屋から出て行った。  それが合図となったように清瀬師長は星川ナースに厳しい一瞥を投げると教授に深く頭を下げて星川ナースを伴って出て行く。一件落着と踏んだのか黒木准教授は久米君に向かって言った。 「そろそろ院生の研究チェックの時間だ。急がないと間に合わない」  そう言って、まだ走った疲労から回復していないのか脚をがくがくさせて教授に一礼し、 「今回は田中先生が上手くまとめてくれました」  そう言って久米君と共に部屋から出て行った。 「祐樹…怪我を見せてくれ」  彼の瞳は先ほどと異なり、何だか泣きそうな感じだった。 「大丈夫ですよ。縫合の必要もないほどの傷ですから」 「それでも…見せてくれ」  彼の哀願ともいえる口調に包帯を解いた。

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