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第十一章 第4話

「本当は包帯を巻くほどの怪我でもありませんよ…」  祐樹などよりももっと外科医らしい冷徹で怜悧な彼の表情がどこか歪んで、何だか少し幼げに見える。  露出した切断面を丁寧に、しかも落ち着きなく確かめている様子は全く医師らしくない。しなやかな指もかすかに震えている。そう、祐樹が教授とこういう関係になる前のような震え方だった。そういう彼を見ているのが痛々しい。 「ご存知でしょう?メスの傷は腱さえ切断しなければそこらの刃物で切ってしまうよりも安全なことを…」  呼吸を止めて祐樹の怪我を見ていた彼は、やっと呼吸を再開した。安堵の響きが混じる溜め息と共に。 「それは知っていたが、私のLA時代の恩師も手術中にメスで再起不能の怪我をした。その忌まわしい記憶がフラッシュバックしてしまって…。祐樹も同じようになったらどうしようかと…ついそちらに考えが…。   しかも私が怪我をする筈のところを。本当に申し訳ない」  彼は祐樹の右手を愛しそうに撫でながら言った。傷口は避けてはいたが、ちゃんと指が動くかどうか確かめている。その声が僅かに震えている。彼のトラウマ――精神的外傷――にでも触れたのだろうか? 「心配性ですね。それに貴方の手と私の手では重要度がまるで違います。優先順位から考えても私の手でメスが止まるならそれでいいと咄嗟に判断しました。良かった、貴方の手が無事で…」 「そんなことは、ない。私が早く気付いてさえいればと後悔している。彼女の反撃の中にはこのことも織り込み済みだったのに、今日の彼女の様子で大丈夫だと判断した私のミスだ」  悔しそうに唇を噛む。彼の性格からすると星川ナースを責めているのではなく、自分を苛んでいるのだろうな…と思った。 「そんなに唇を噛まないで下さい。切ってしまいますよ」  左手の人差し指で唇に触れた。その唇の冷たさに彼の驚愕の深さを感じた。彼の唇を人差し指で辿る。指の戯れにつれて彼の唇にもいつもの薄桃色が戻ってくる。 「きちんと消毒しないと」  人差し指が触れたままの唇が動く。その様子は妙にエロチックな眺めだった。 「そんな傷、貴方が舐めたほうが治りが早いと思いますよ…」  祐樹としては彼の深刻な様子を少しでも軽くさせるための冗談の積りだったのだが。 「唾液は雑菌の温床だ。やはりイソジンで消毒を」  あくまで真顔で返された。まぁ、律儀な彼の性格は大変好みだったが。 「貴方にこんなかすり傷の手当てをして戴けるなんて思いも寄りませんでした。ゴット・ハンドの出番には勿体なさ過ぎるシュチュエーションです」 「何を馬鹿なことを…。祐樹のメス捌きの確かさは私が一番良く知っている。これから修行次第では私と同等のレベルまでの手術はこなせる筈の手なのだ。  その祐樹が私のせいで怪我をするのは…耐えられない」  予想を遥かに超えた教授の高評価に唖然とした。 「そこまで私の腕を買って戴いていたのですね。光栄です」  器用に包帯を巻き終わると教授はやっと心から安堵したかのような笑顔を見せる。  その笑顔は無垢でいながらもどこか色香が薫る綺麗な眺めだった。 「星川ナースの件ですが」  衝動的にこみ上げてきた欲情――彼のそんな笑顔は初めて見るものだったので――を押し隠すために唾液を呑み込んでから祐樹は報告する。 「清瀬手術室師長と黒木准教授判断で、彼女を今後は教授の手術には関わらせない代わりに表沙汰にはしないということで妥結しましたが…それで良かったですか?」 「ああ、もともとこの件は私1人で何とかする積りだったのに…祐樹をたくさん巻き込んでしまった…杉田弁護士を紹介してくれたのも祐樹だし…有り難う」  その瞳に涙の薄い膜が張られているのに気付き、動揺してしまった。その表情は彼の孤高と純粋さを湛えているかのようで。 「何だか、医局では私は教授の懐刀という噂なのだそうです。だから遠慮なく使ってやって下さい」  彼の深遠な湖水を思わせる瞳に魅入られながらそう言った。彼はふと表情を変えて、人知れず咲き誇っている深山の満開の桜を思わせる笑顔を見せてくれる。 「祐樹は私が最も信頼する部下だ。その祐樹の怪我がこの程度で本当に良かった…」  包帯を巻いた右手を教授は自分の頬に当てている。白く長い指がこれもまっさらな純白の包帯に絡んでいる様子は――彼がやっと血色が戻ってきた頬がほんのり薄紅色をしているだけに――絶景だった。  が、「最も信頼する部下」なだけなのかと少し落胆する。プライベートではどうなのか…聞きたかったがここは手術控え室だと今更ながらに気づく。迂闊だったが。先ほど、皆が出て行ってからは鍵を掛けていない。そっと彼の指を解く。そして鍵を掛けるために扉の方に行った。教授は今までの手術の精神的・肉体的のせいか放心したまま佇んでいた。  違和感を覚えたのは、扉に近付いた時だった。外に誰か居るような気配だった。それも気配を殺しているような…。  五秒待ってから思いっきりドアを開けた。が、そこには誰の人影もない。だが、かすかに医師の纏っている消毒用のアルコールの匂いがした。  祐樹の怪我を心配して覗きに来てくれた手術のスタッフ――例えば柏木先生など――なら気配を殺す必要はないし、祐樹がドアを開けたら入って来るだろう。逃げる必要はどこにもないのだから。  祐樹の神経が警告のアラーム音を発している。 ――医師の誰かが、部屋の様子を窺っていた?――  ただ、このことは教授には言わないでおこうと思った。今日の件で心配を掛けた上に、いつも通りに振舞っているのでツイ忘れかけだが…星川ナースの黒幕についても密かに案じていることは知っている。その上彼は病み上がりだ――とてもそうは見えないが――  注意深く辺りを見回してから鍵を掛けて、教授に近付き彼の白い耳たぶに囁きを流し込む。 「お昼御飯…教授室でご一緒しても良いですか?」  コクリと頷く彼は、いつもと違い、あどけない雰囲気だった。 「私の秘書が祐樹の分も用意している筈なので、一緒に食べよう」  その言葉に先ほどの違和感が顔に出ないように注意して返事をした。 「分かりました。お伺いしますね。手術着を脱いでから」

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