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第十一章 第5話
手術スタッフ用更衣室で白衣に着替えていた。今は午後の手術が始まるまでは使用するスタッフがいない。
先ほど感じた「誰かが盗み聞きしていた」のではないだろうか?という違和感のことを考えた。やはり気のせいではないと思う。そして盗み聞きをした人間が医師だという蓋然性が高い。
だとすれば、香川教授に含むところの有る人間だ。やはり香川心臓外科の一員だろうな……と思う。
動機という点では、殆ど決まりかけていた教授のポストを横から取られた黒木准教授が一番怪しい。順送り人事では彼が教授に昇格する。以前の大学病院では当たり前のことだったが、独立行政法人になった大学病院では実力主義へと重点が変わった。ワリを食ったのは黒木准教授だ。
彼の言動を見ていると教授のサポートを一生懸命務めているといった感じだった。だが、大学病院はホンネとタテマエを上手く使いこなさなければ出世欲に取り憑かれた魑魅魍魎が跋扈する世界なので。もしかしたら。黒木准教授も、ホンネとタテマエは違うのだろうか?
その次に怪しいのは「香川教授の手術スタッフに指名されていない人間」だ。山本センセを始めとする……。
香川教授は思考方法も行動形式もLA帰りにしては「日本人らしさ」が表に出ているが、手術に関してだけはアメリカ人のように実力至上主義だ。研修医の祐樹や、新米医師の柏木先生、そして手技には定評の有る黒木准教授を使うことに決めているらしい。この点は、ポジション重視の人間には理解出来ないだろうが……。畑仲医局長を始め(ちなみに医局では一番上のポスト医局長だ)山本センセはもちろんのこと……木村講師も手術から外されている。
この人達は心臓外科医として専門分野で――そこいらの開業医とは違って大学病院の医師は専門性が高い。心臓外科の手術をどれだけこなしたかが問題にされることが多いので、香川教授の着任以後、いたくプライドと、そして自分の心臓外科医のキャリアを積めないもどかしさが憎悪に変わったことも大いにありえる。
その上、ポスト=実力と勘違いをしている人間は多い。実際は政治力なのだが。それに気付かず、一介の研修医に過ぎない祐樹や、新米医師の柏木先生が手術スタッフとして毎回のように指名されると、実力は研修医以下なのか……という怒りを喚起させたという可能性も捨てきれない。桜木先生のような香川教授が実力を手放しで賞賛している先生も教授になれない世界なのだから…。桜木先生は悪性新生物(いわゆる癌)手術の分野では、この大学病院一の実力の持ち主だと言うのに…
医局の様子を窺ってみようと思った。
香川教授とのランチに直ぐに駆けつけたかったのだが。祐樹も最近では医局の居心地は――医局長の畑中先生が居ると――すこぶる悪い。ついつい足が遠のいてしまっていたのだが、今回のようなことがあると、医局の動向やウワサに注意しなければならないだろう。
医局の扉を開けて、祐樹が密かに案じていた「想定される敵」は全員居ないことを確かめる。誰にも気付かれないように安堵の溜め息をつく。
先輩の先生が、祐樹の怪我を心配してくれる。当然、手術スタッフから噂は漏れたのだろう。
「大丈夫です。本当は包帯も必要ない程度の怪我でして……。ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」
丁寧に頭を下げる。これ以上敵を作りたくはないので。
柏木先生がこっそりと祐樹に視線で合図した。
彼は自分の机に向かい、パソコンで何かを――多分、論文だろう――を入力していた。祐樹がそちらに行こうとすると、彼は立ち上がり視線で合図して外に出るように促す。
かすかに頷き、先ほど通ったばかりの扉から出て行く。廊下にもたれて――論文執筆中なら区切りの良いところまで書き進めるだろうから、彼が出てくるのは暫く掛かるだろう。
が、予想とは裏腹に柏木先生は直ぐに出て来た。
「怪我は大丈夫なのか?」
そんなに心配していない顔で聞いてくる。それはそうだろう、彼は祐樹が怪我をした瞬間から見ている。
その後、星川ナースを連れて手術室から彼女を連行する祐樹の姿を見ていたのだから、怪我が大したことはないのは彼にとっては明白だったのだろう。
「ええ、大丈夫です。包帯を巻くのが大袈裟な程度の傷ですよ」
「まぁ、そうだろうと思ったが……、一応は確かめてみただけだ」
合理主義の彼らしくない挨拶だった。手術室に居て、自分が動けなかったことを少し悔いているのかもしれないな……と思う。
2人して中庭に行く。と言っても案内したのは祐樹だが。中庭だと周囲を見渡せるので盗み聞きされる懸念はない。
「今回の星川ナースの暴走だが……、あれには理由があったように思われる」
「教授が見詰めた時には反射神経で道具出ししていましたよね」
「そうだ。星川ナースは教授の目を見てしまえば、本来の目的を果たすことが出来ないと判断してあんな暴挙に出たと思う。しかし、田中先生が中途退場した途端、教授のメスの冴えが狂ったのは想定外だった。
しかし、今日の手術は、最悪の場合術死が出ただろう。麻酔医の友永先生も同じ気持ちだったハズだ。こんなことはあってはならないな…そこで知っている限りの情報を書いておいたので、参考にして欲しい」
白衣のポケットから紙片を取りだし祐樹に手渡した。
その内 容を見て祐樹は愕然とした。
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