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第十一章 第6話

「しかし、何故この文書を教授に直接にお渡ししないで、私に託して下さったのですか?」  文面を一瞥した――といっても、祐樹も教授と同じく一回見た書類は忘れない。まぁ、この大学病院で働く医師たちは殆どがこの特技を持っているが。 「今回の手術であれだけ執刀医がああも取り乱すとは――しかも香川教授だったので――とても驚いた。と同時に、田中先生のことをとても心配しているのだな……と思えた。何だか彼の人間らしさを垣間見たのは良いのだが、絶対にしてはならないことは患者さんに迷惑を掛けることだ。  私が教授に直接渡すと、一応は、私も医師だ。同僚の悪口を書いて蹴落としたいのではないかと勘繰られる。その点、田中先生は研修医なので、今は未だ出世競争からは無縁の存在だ。この文書は手術が終わって大急ぎで書いたので、誤字脱字は多いとは思うが、私が知っている限りのことは書いたつもりだ。それを直接教授に渡すのも、田中先生がウラを取るまでは教授にはお渡ししないのでも構わない。だた、私も手伝ってはいないが……話を聞いていた点では罪が無いとは言えない。その罪は甘んじて受けるつもりだ」  研修医の祐樹は先輩医師の論文のチェックをすることが多いので、柏木先生の文章も当然知っている。そういえば、彼の論文は誤字脱字が極端に少ない先生だったのだが、今回のレポート(?)は焦って書いたせいか、推敲の時点で撥ねられる表現や誤字脱字は多い。それだけ焦って文章を作成したのだろう。 「有り難うございます。教授に見せるかどうかは分かりませんが……私なりに調べてみます」 「ああ、そうしてくれ。大学病院の出世競争の巻き添えを食って罪のない患者さんが不利益を被ることは絶対に避けたいからな。  香川教授は学生時代からの付き合いだが……彼はこの大学始まって以来最年少の教授だけれども、お世辞にも自己顕示欲があるたタイプではなかった。  それは、今でもそうらしいな。その点が『何が何でも出世したい』と思う先生にとっては脅威なようだ。   それに学生時代から変わっていないのは、ずば抜けた手技を持っていながら全く天狗になってないところだ。あいつは学生の時に外科学を完成させていたクセに、ちっとも偉ぶらなかった。そういうところは全く変わっていないが……。ただ、あいつは口が重いんだ。話せば分かることでも沈黙を通してしまう。今もそれは変わらないようなので…この思惑が錯綜する伏魔殿のような大学病院の教授としては…そこが気になるところだな……友人としては……。  では私はここで」  そう言って立ち去る柏木先生の後ろ姿に深深と頭を下げた。何しろ、この文章の中には彼の名前も載っているのだから。そこが祐樹の驚いた所以だ。  彼も内科の内田講師と同じく患者さんの命を最優先で考える医師のようだ。  医局の中庭は(学生が入って来ないことと、外なので喫煙が黙認されている。スモーカーの誰かが丁寧に取り付けたのだろう。空き缶を器用に分解して灰皿にした物も置いてある。その形状は市販の灰皿と同じでしかも、煙草置きまで作ってあるスグレモノだ。外科医は手先の器用な人間が集まっているので、しかも凝る時はとことん凝る人間が多い。そういうスモーカーの先生の力作だろう。  煙草に火を点けて、先ほど渡された柏木先生のレポートを読む。医師らしく要点を簡潔に纏めてある。   曰く、  香川教授の手術の妨害をしようと誘われた。理由は「教授というポジションに相応しい人物かどうかを確かめよう」というものだったので一応受けた。この件黒木准教授も一枚かんでいるということだったが、一緒に相談をしている時に彼の姿が一度も現れなかったことからや、彼らの発言に准教授の名前が出て来なかったので信憑性は薄い。 メンバーは、次のとおり。 畑中医局長…黒木「教授」誕生のあかつきには彼が准教授に昇格することはほぼ決まっていたので。 木村講師…畑中医局長の腰巾着で、医局長の信頼も篤い。畑中「准教授」が実現していたなら医局長の座を射止めたと思われる。 山本助手…前述の理由と同じく、ポストが横滑りの場合は講師になれたので。また、斉藤医学部長の令嬢の志乃さんに片思いしていたが、彼女は香川教授がとても気に入ったので、香川教授が教授着任以来はずっと、告白も手酷い言葉で断られている。  他の医局の先生は、香川教授の手技や人間性に畏敬の念すら持っているので星川ナース暴走の件は、上記三人の示唆によるものと考えざるを得ない。  星川ナースを使って教授の手術を妨害しようとのアイディアを相談された時に、彼らとは訣別したのでこれだけしか分からない。 なお、こんな志の低い人間達の仲間に知らなかったとはいえ入っていたのは慙愧に堪えない。  という書面だった。もちろんパソコンで作成してあるが、文末には彼の自筆の署名が入っている。これが彼なりの贖罪の証だろう。  書面を読む限り、他の手術室のナースを共犯にしたという感じではなかったことにまず安堵する。  書類を読みながら考えに耽る。煙草を三本吸い終わって、この三人の身体に見立てた煙草を手製の灰皿に火を消しがてら思いっきりもみ消す。  気持ちに正直になるならば、煙草の吸殻を地面に落として踏みにじりたかったのだが。病院内は禁煙だ。   いくらココは目こぼしされているからといって、吸殻を落とすのはマズい。踏みにじった後にこそこそ灰皿に入れるのも何だか情けなかったので。  教授室のフロアに行って、念のため左右を見回す。敵はまさか教授室のフロアまでは様子を探りに来る度胸はないだろうとは思ったが。 「田中ですか……」  入出を許可される。と、彼は、薫風よりも爽やかで、満開の桜のような清潔だが色香が漂う笑顔を見せてくれた。

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