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第十一章 第7話
その微笑が祐樹の包帯を見てたちまち曇る。
「取りましょうか?元々包帯は大袈裟すぎるんです」
「いや、心臓外科医の指の怪我は甘く見ない方がいい」
そう言って傍に控えていた女性秘書に――彼女は佐々木前教授の秘書だったので秘書としてはベテランだ――言った。
「お願いします」
「かしこまりました」
そう言って出て来たのは通称ナースセット――外科といっても、怪我を見るほうの――外科のナース用の台車だった。
「もしかして、また手当てですか?」
いささかげんなりして祐樹は言った。彼のすることは大袈裟過ぎる。今はまだ5月だ。それほど化膿を心配する季節でもない。
「ゆ、田中先生、手を出して」
わざと怪我をした右手ではなく左手を出すと、彼の眉が曇った。彼にそんな表情をさせたことを悔やんで――所詮は惚れた弱みだ――大人しく右手を出した。
彼はいつもの高級そうなスーツを着ていたが、そんなことは意にも介さず祐樹の包帯を器用に解いた。出血しているのを慮って油紙を巻いてテープで止めたものも外す。ぽとりと血が落ちた。彼の男としては少し細い手首に。
手術で血を見慣れている筈の教授の眼差しが動揺しているのが分かる。動作も止まったままだ。たかが祐樹の血液の一滴で。
別室に下がっていた秘書が声をかけてくる。「手術室の清瀬師長から教授にアポイントメントを取ることを許して戴きたいとのことですが?」
「分かった。どうせ今日の手術の件だろう…被害者のゆ…田中先生が居ても差支えがないか聞いてから、昼休みにでも、ここにくるようにと伝えて下さいますか」
「昼休みはあと五分ですが…」
秘書などの事務方は時間厳守で動いている。昼休みは12時からだ。医師やナースは患者本位で動くため、時間にルーズなことが暗黙の了解で許されている。
「昼休み中ならば、いつでも良いと伝えてくれ」
秘書との会話で自分を取り戻したのだろうか。彼は祐樹の傷口に過剰なほどにイソジンを塗って、油紙を巻きテープで止める。そして包帯を巻く様子は熟練したナースよりも上手だった。祐樹が一番手当てが上手いと密かに思っている――外科のナースの仕事振りは当然知った上で――救急救命室であっても短時間にこれだけのことが出来るのは阿部師長だけだろう。
教授は自分の手首に滴った血を唇でそっと吸い取った。彼の薄紅色の唇が自分の血液を口に含む様子はひたむきだが、とても扇情的で背徳感すら感じた。
「阿部師長なら、アポイントメントなど取らずに押しかけてくるというのに、手術室のナースはみんな行儀がいいのですね」
「いや、阿部師長情報だと、今の総師長は阿部師長とも仲が良い上川総師長という人らしい。私は会ったことがないが…。この人は阿部師長と同じで横紙破りの名人だそうだが、清瀬師長はそのライバルの秘蔵っ子らしい。こちらは規則遵守がナース服を着て歩いているような人だそうだ…」
思わず眉間に皺が寄った。
「もし、そのナースが総師長になったら、やりにくくありませんか?」
彼も同じような表情をしている。といっても長い睫毛を伏せただけだが。それだけの動作が艶と懸念を表現している。
「当然、鈴木さんの件などは真っ向から反対されるだろうな…今出来ることは、清瀬ナースの弱みを――本当はこのような手を使いたくはないのだが――最大限に利用して上川総師長の地位を磐石にすべきだろうな…」
彼ほど頭脳明晰ならば、そんなことはたやすいだろうが……彼は「大学病院」という魑魅魍魎が跋扈する世界で生きてきた期間は僅かだ。それならば、大学病院しか知らない祐樹の方がまだ交渉すれば何とかなるような気がした。
「その話し合い…被害者として私が同席しても構いませんか?」
「それは、構わないが……祐樹に何か考えがあるのか?」
「今はありませんが、何とか考えます」
秘書控え室から、「ランチタイムに行って参ります」との大きな声がかかった。
教授室は秘書控え室と並んで設置されているが、大きな声を出さないと聞こえない仕組みだ。そのため、教授のデスクの上には秘書呼び出し用のベルが設置されている。といっても香川教授は電話を使う方が多いようだったが。
「祐樹のためにと用意した昼御飯だ。口に合えば嬉しいのだが……」
「口を合わせますよ」
珍しく冗談を言った。彼は自分のせいで祐樹に怪我を負わせたことをまだ後悔しているらしい。そんな後悔は無用だと言っても意外に頑固なこの人は口では分かったと言いながらも内心では責め続けるハズだ。
それを避けるためには、明るく振舞うこと…そして夜、Rホテルに誘うことだと思う。
「あ、これは張り込みましたね。『幾松』のお弁当ですよ。一回食べて見たかったので。有り難うございます。」
柏木先生から託された書面のことは今は黙っておこうと思う。そして手術控え室で感じた不審な人間の気配も。
この人は色々なものを背負っている。それを軽くするためには、明日中にでも分かる杉田弁護士の情報開示までは柏木先生から名指しで受けた三人の共謀なのか、リーダーがいるのかなどを今、考えても答えは出ないのだから。
「『幾松』というのは、桂小五郎を助けた女性だろう?」
「ええ、その後、彼の正妻になりましたがね。その店は『幾松』ゆかりの高級和食店です。よくそんなところからお弁当を…」
「秘書に買ってきて貰ったお弁当もあったのだが、先日無事に手術が終り、退院した患者さんが、『是非、教授に召し上がってもらいたい』と持って来てくださったらしい。そちらのほうが祐樹も飽きないだろうと思って出してみたのだが」
「ええ、薄給では食べられませんから…有り難うございます」
名前は良く聞いていたが、食べるのは初めてだったのでつい笑顔がこぼれる。そんな祐樹の様子を教授は心の底から嬉しそうに眺めているかのように、唇が綺麗な形の笑みを刻んでいた。
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