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第十一章 第8話
座り慣れた応接セットの椅子に座る。教授は「直ぐに終るから、もし空腹だったら先に食べていてくれ」とパソコンに向かっていた。
「いえ、待ちますよ。私のせいで仕事が長引いたのでしょうから…」
彼が祐樹の前で仕事をするのは、どうしても外せない電話を取ることくらいしかしないのを祐樹は勘付いてしまっていた。
すっかり馴染んだものだな……とこの一月余りを懐かしく思った。
高級料亭に相応しくそこいらのコンビニ弁当とは違って漆(だろう…多分)のお重が豪華だ。
それをぼんやりと見詰めていた。いや、見詰めるフリをして彼の横顔を盗み見ていた。パソコンに向かう彼の顔は手術の時の張り詰めた顔――それはそれでとても真剣みが有って良いが――どこかリラックスしているように見える。それに唇には仄かな笑みが浮かび、見ているこちらまでが幸せになりそうな笑顔だった。
ポケットに厳重に仕舞ってある柏木先生からの書面のことは今は忘れようと思っていた。彼がふっとこちらを向いたので、慌ててお重に目を向けた。
「流石は高級料亭ですね…菖蒲の蒔絵が見事です」
彼は椅子から立ち上がると、彼にしか出来ない優雅で静かな歩き方でこちらへ近寄って来た。
「ふうむ……私には杜若に見えるが?祐樹が言うなら菖蒲なのかも知れないな……」
祐樹の横に来てお重をマジマジと見詰める。
「すみません…この花の形はみんな菖蒲に見えるんです。杜若かもしれませんね。花にはお詳しいのですか?」
彼は自然な動作で祐樹の隣に座る。
「いや、何となく杜若に見えただけで、全く詳しくはない…高校の時の教科書にこれとよく似た花の絵が載っていたのを覚えていただけだ」
「ああ、古文の教科書ですか?」
「そうだ。確かにこんな花だった」
「でも菖蒲の別名は『あやめ』ですよね。どちらも似ている花なのでは?」
「よく知っているな……私は余り知らないので……」
「そういえば、杜若の別名は『顔良し花』なんですよ。貴方にはそちらの方が相応しい。きっとこの花は杜若です」
「顔?私はそれほどでもないが……」
真顔で否定する彼はいつものように真剣だ。杉田弁護士の言うように自己客観視が出来ていない可能性が高いな……と考えた。それならばナース達の噂話を聞かせてやりたいと切実に思う。絶対にそんなことはしないが。
彼がお重を開けたので、祐樹もそれに倣う。店屋物のように後で返すシステムになっているのか、お味噌汁までが漆器の器に入っている。
「聞きしに勝る豪華な京料理ですね…」
「ああ、驚いた。まさかこれほどの物が差し入れられてくるとは……」
お味噌汁を飲みながら教授も目を丸くしている。
「私が金品を受け取らないのことは患者さんたちにとっては周知の事実らしく、しかも独身だからと料理の差し入れを――それならば鮮度が落ちるからと言って――直ぐに召し上がって下さいという言付け付きで置いていく患者さんが多くなった…まぁ、金一封ならその場で返すのだが」
彼らしい潔癖さと律儀さに危うく笑いがこみ上げそうになった。が、このご時世、金品を下手に貰うと厄介なことになるのは目に見えているが。それに彼はお金に困っている様子でもない――教授の給料は知らないが、祐樹などよりも余程良いだろうし、アメリカ時代の貯金もかなりあるはずだ――別に彼の懐具合を探ろうとも思わないが。
祐樹の箸使いを彼が息を詰めて見ているのが分かった。利き手の右手の観察をしているのだろう。相変わらずの心配性につい溜め息が出た。
「怪我が痛むのか?」
眉を顰めて彼は言った。
「だからそれほどの怪我ではありません。全く問題はないです。ちゃんといつもの箸使いをしているでしょう?証拠に…」
たまたま箸で挟んでいた竹の子を山椒の葉でくるんだ――正式名称は祐樹も知らないが一口食べてみると、とても美味だった――を見て悪戯心が起きた。
「竹の子と山椒はお嫌いですか?」
「いや、何でも食べるが?」
「では、これは絶品ですから召し上がって下さい」
そう言って、箸を持ったまま祐樹の食べっぷりを観察していた教授の薄紅色の唇へと差し向けた。
「口を開けて下さいね」
彼は眩しそうな目をして祐樹の指図に従う。
「美味しいな……」
「でしょう?私も一口食べてみて美味しいと思いましたから」
「後で私のを回すから、もう一口」
咀嚼して口を開ける。何だか雛鳥に餌を上げる親鳥になったような気分だが、それも悪くはない。しかも彼には無用の心配を掛けた身の上だ。
彼は目を瞑っているのでまるでキスをねだっているようにも見える。感情ではキスをしたかった。だが、もう少しすると清瀬士長が教授室にやってくるだろう。キスはセックスほどではないが、甘い余韻を周囲の空気に纏わりつかせる。敏感な人間だと気付くだろう。そう思って自重した。
「どうぞ」
そう言って彼に竹の子の山椒包みを祐樹のお箸で食べさせた。
彼は心の底から嬉しそうに食べてくれた。どうやら食欲不振は払底されたらしい。祐樹も安堵した。
「午後は、鈴木さんを救急救命室に連れて行くが、祐樹ももちろん来るだろう?」
彼は自分の箸を使って食べていたが、思い出したように言った。
「もちろんです。あ、失礼。電話が鳴って……」
胸のポケットではなくスーツのポケットに入れてあったのが敗因だった。祐樹が出る前に切れてしまっていた。
ディスプレイの表示は「公衆電話」。今時、公衆電話から掛けてくる人間は少ない。入院中の祐樹の母くらいだ。母に何かがあったのだろうか?ただ、病状が悪化すれば入院している病院からの知らせがあるだろう。
「どうした?」
幾分心配そうな彼に「どうやら間違い電話らしいです」と誤魔化した。
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