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第十一章 第9話

「流石に京都で名だたる老舗料亭のお弁当ですね。とても美味しかったです。ご馳走様でした」  「ご馳走様」の仕草と共に横に座って同じように食べ終えていた教授もどこか安心したように花の綻ぶような笑みを浮かべた。  「安心」は食べ物に対してではないだろう。祐樹の怪我が腱に達していなかったということが分かってのものだと思う。その証拠に祐樹が箸を動かすたびに息を詰めていたのだから。  心配しすぎだとは思うが、無視されるよりもずっと良い。祐樹は彼に対する恋情を日に日に膨れ上がって来ている自分を自覚していたので。  ちなみに、竹の子と山椒の料理以外は各々が食べていた。つまりは男性1人分――女性だと食べきれない人間も居るに違いない――の料理を彼1人が食べたわけで……食欲不振が治って良かったなと心の底から安堵した。店屋モノだと食器は洗って返却しなければならないな…と祐樹が思っていると、隣の彼は「コーヒーでも飲むか?」と聞き、その瞬間優美に立ち上がりかけた。どうやら自分でコーヒーを入れに行くつもりらしい。  思わず右手を太腿に置いた。 「教授にそんなことをさせる研修医なんて日本各地を探してもいないでしょう。私が入れます」 「しかし、包帯では手の動きが制限される。それに…」  教授が言い終わらない内に教授室のドアがノックされた。 「手術室の清瀬です。入室させて戴いて宜しいでしょうか?」  慌てて、彼の太腿から手を離す。教授も座りなおした。平静な声で入室を促す。 「失礼します」  深深とお辞儀をしてから清瀬師長は几帳面で真面目そうな顔――男性によっては並以上の美人だと断定するだろうが。ただし、年は阿部師長よりも少し下くらいだが、最近ではアラフォーともてはやされている年代だ――で教授と祐樹を見比べ、そして机の上に乗っていた「幾松」のお重を見て目をキラリとさせた。机上の物を一瞥してからは明らかに不機嫌そうだった。 「今回はお詫びに参りました。ウチの星川がこちらの田中先生に怪我を――しかも複数人の証言から明らかなことに――どうやら故意らしいとのことで……。これはお詫びです」  そう言って銀座の有名な果物屋の紙包みを差し出した。祐樹は教授の執務机に近い方――つまりは上座だ――にたまたま座っていたので、下座に居た教授が受け取った。 「これはわざわざ有り難うございます」  いつものように教授が丁寧な受け答えをする。 「しかし、それはそれとして、教授室では教授が長である筈。なのに、香川教授はご自分の机ではなくて応接セットでお昼をお召し上がりですか?」  流石に礼儀や法令遵守に五月蝿いと言われている清瀬師長のお言葉だった。謝罪に来たハズが何故か説教になっている。  祐樹が言い返そうとするよりも早く、教授はいつものソフトな口調で言った。別にこのくらいのことで怒る人でもない。 「上司だからこそですよ。ゆ…田中先生は私がするはずだった怪我を代わりに負ってくれたのですから、包帯が取れるまでは食事の介護をするのは当たり前のことではないですか?」  いつの間にか「要介護対象者」にされてしまっていたが、手術室のナースを束ねるこの女性を敵に回すことも出来ない。仕方なく頷いた。 「まあ、怪我人だと仕方のないことかも知れませんね……」 「ご理解頂き有り難うございます」  流石の教授も少し疲れたような声で応じる。確かに彼女のこの様子から推察すると阿部師長とは絶対に反りが合わないだろう。医療現場は、言葉は悪いが…メリハリをつければいいだけのことのように思える。四角四面、院内規則をされていては(食事くらいならともかく)医療現場ではやりにくいことも多いと救急救命室に居る祐樹は思う。  彼女の視線は教授の容貌でしばらくは留まっていたが、思いなおしたように応接セットの机に向けられた。 「その『幾松』のお弁当…京観光のお客さんに出すリーズナブルなお値段のものではないですよね?これは教授がポケットマネーでお買い求めになられました?」  「そうだと言って下さい」と横に居る彼のスラックスを突付いて合図するが、彼女の剣幕に毒気を抜かれたのか明敏な彼も祐樹の合図に気付かないままだった。 「いえ、患者さんからの差し入れです」  律儀で真面目な彼らしい真実の答えだったが、彼女の眉はきりりと吊りあがった。いかにもナースらしいキツイ潔癖で生真面目な眼差しを教授に向けた。 「患者さんからの差し入れは『謝絶』という院内規則をご存知ないのですか?」  もはや、彼女の頭の中からは「謝罪に来た」という目的が飛んでしまっているのだろうか?イノシシのような人だな……と思う。確かに規則遵守がナース服を着て歩いている人……というウワサは真実だったらしい。 「しかも、私達がボーナスでも出ないと行けない『幾松』の、それも特別に作らせたお弁当だなんて…」  「自分も食べたかった」と言わんばかりに唇をわなわなと震わせて彼女は怒りに燃えた瞳を教授と自分に向けた。こうなっては公憤か私怨か分からない。  高級料亭なのは知っていたが、特別に作らせたお弁当だとは知らなかった…と言っても、彼女には何の効き目もないだろう。法令遵守と(多分)食べ物の恨み…これは男性にとっては恐怖だ。特に祐樹のように結構いい加減に生きて来た人間に取っては…  教授も絶句して――彼にしても謝罪に来た人間からの攻撃(?)は想定外だったらしい――祐樹達とは反対側の椅子に座るように促した。 「では失礼します。この医局では患者さんからの金品は受け取っていらっしゃるのでしょうか?」  座ってからも追求を止めない。 「いえ、現金や換金性の高い商品券などは絶対に謝絶していますが……ただ、生ものなどは場合によっては受け取ります」  そこで祐樹はふと、先ほど教授が受け取っていた紙包みの包装紙を見て良いことを思いついた。彼女の口を封じ込めるために。

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