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第十一章 第10話

「つまりは、手術室のナースの方々は患者さんからのお礼の物品は一切貰っていないということですね?」  清瀬師長は当然だというふうにきっぱりと頷く。研修医風情が口を挟むなと言いたいような目つきだった。 「もちろんです。私の目の届く範囲では、一切そういったことは行われておりません。また、私も患者さんからはもちろん戴いておりません。その点、香川外科はいい加減なようですね、嘆かわしいことです」  わざとらしい溜息とともに言う。教授は表情の選択に困ったような顔をしている。彼は祐樹の前でこそ、こういう顔はよく見せるのだ。仕事関係でのこんな顔は珍しい。まぁ、誰でも「謝罪しに来た人間に逆に説教をされる」というのは想定外だったのだろうが。  自分でしても良かったのだが、教授は清瀬師長に「祐樹の怪我の介護でこの席に座っている」と言い訳をしていた。ならば、祐樹が右手だけでなく左手を使うのも今はマズイ。実は祐樹は利き手は右だが左手も学部生の時に特訓して同じ程度には使える。  本当に怪我で右手が使えなかったとしても、左手で食事は支障なく食べられるのだが、それを今彼女の前で明かしてしまうと「では何故、部下の下座に教授が座っていたか?」とまたまた突っ込まれることは火を見るより明らかで……、仕方なく教授に声を掛けた。 「すみません。とても喉が渇いていて…それに清瀬師長の手土産は形から拝察すると果物のようですね。今戴いても構いませんか?手土産をその場で開ける無礼は承知していますが、何分、怪我人のワガママということでご承知願えればと思います」  そう言って不思議そうな顔をしている(それはそうだろう。さっきまでお箸を普通に使って食べていた上に、食後のコーヒーも断ったのだから喉が渇いているとは考えられないと教授は思ったハズだ)教授に意味ありげな目配せをしてから、清瀬師長に頭を下げた。  彼女は祐樹の企みに気づくことなく「失礼な人だわね」という蔑みめいた視線で祐樹を一瞥する。 「どうぞ、これは差し上げたものですから……今召し上がって下さっても問題はありません」  丁重だが何となく偉そうな口調だった。こんな師長に率いられるとたいていのナースはゲンナリするだろうな……と思う。 「教授、お使い立てして申し訳ありませんが…その包装紙をハサミで切ってから、中の果物を出して戴けませんか?」  彼の聡明な煌めきを宿す眼差しは祐樹が見舞いの品を食べたいと言い出した時から清瀬師長と見舞いの品を交互に窺っていた。   その瞳が面白そうに輝く。祐樹の意図が分かったらしい。祐樹が先に気づいたのも、別に教授の察しが悪いというわけではない。教授は「法令遵守」のナースを見たのは多分初めてで……その分驚いて本来の明敏な頭脳の回転が鈍ったというだけだろう。祐樹はこういう手合いのナースの愚痴は、他のナースから聞いていたので驚かなかっただけなのだが。 「分かった」  彼は優雅に立ち上がり、執務室のデスクの引き出しからハサミを取り出してこちらに戻って来た。ご丁寧にカッターナイフまでも持参している。  包装紙をしなやかな指で綺麗に剥がしていく。箱の形状からしてメロンだろう。祐樹の意を汲んだ教授はいつも以上の几帳面さで作業を淡々とこなしている。メロンの外箱が表れた時、祐樹は内心ではしてやったりとほくそえんだ。表情には絶対に出さないようにはしたが。思い通りの結果だった。が、わざと困惑した声を出す。 「のし紙には『御礼』とありますね。『御見舞い』ではなく……しかも名前は『清瀬』ではありませんね……。どうして、教授や私に『御礼』なんですか?」  清瀬士長は言葉に詰まっている。つかの間の静寂が教授室を支配した。  祐樹は教授の顔を見ると、会心の笑みを浮かべてしまいそうになるので、わざと清瀬師長の表情の変化を観察していた。  彼女の顔が次第に青ざめてきている。それはそうだろう。 「自分のところでは患者さんからの御礼は謝絶する」  そう言い張っていたのだから。  幾分、強張った口調で彼女は言った。 「申し訳ございません。ウチでは患者さんからの御礼は謝絶しているのですが…のこれは、他科のナースに回して貰ったもので…」 「それでも、こうして教授や私にそのメロンをお詫びに使うというのは、立派な私的流用になりますよね?清瀬師長の高潔なお志には反するように思えますが……」  彼女は唇を噛んで俯いた。数分後、意を決したように顔を上げてすっと立ち上がった。 「お詫びに伺ったというのに失言の数々、どうかお許し下さい。申し訳ありませんでした」  深々と頭を下げた。教授が静かな声で言った。 「いえ、別に気にはしていませんから……。どうかお座り下さい。ところで、星川君はどうしていますか?」  その一言で彼女の顔が曇る。どうやら、やっと本来の自分の役目――謝罪――を思い出したようだった。やはり彼女は猪突猛進タイプのようだ。 「手術室の責任者として深くお詫び申し上げます。彼女は確かに手術室一の道具出しの名手でした。ですから私の方でも香川教授の手術のスタッフとして指名された時には当然だと思っていたのですが…。ただ、他の手術室のナース……名前は伏せますが……からは疑問の声が上がっていたようです。その時点で私の裁量で……変更していればと、慙愧の念に耐えません。今回は本当に申し訳なく思います」  自責の念に苛まれているような声に「手術室のナース」全員が敵方に回ったわけではなさそうだと……柏木先生からの文書でもそれは分かっていたが……その点は安堵した。 「私の大切な部下に故意で怪我をさせてしまったことを認めるのですね?」  教授が珍しく微量の怒りを込めた声で清瀬師長に言った。 「はい、申し訳ありません。リスクマネンジメント委員会にも提出すべき事例です……が」  彼女の瞳が哀願に変わる。確かにリスクマネンジメント委員会に提出されれば彼女にも負担は掛かる。 「分かりました。以後、私の手術に星川君を使わないという条件さえ呑んでいただけたら、私も大袈裟に騒ごうとは思いません。幸い、怪我も腱にまでは達していなかったようですから」  静かな口調だったが、彼女は叱責されたように項垂れて聞いていた。そして数々の無礼を思い出したのだろう。 「ご厚意、大変有り難く思います。星川が何故あんなことをしたのかは、責任を持って問い詰めて後ほどご報告に参ります」  そう言ってそそくさと礼儀に適った一礼をし、教授の許可を得てから教授室を出て行った。最後の彼女の視線の先は、祐樹達の食べた昼食の残骸だった。祐樹のみならず他の人間を魅了して止まない教授の秀麗な顔ではなく。  彼女の足音が遠ざかると教授は祐樹を感心したように見つめた。少し疲れた顔をしている。どうやら彼女の毒気に相当参ったらしい。 「どうして、見舞いの品がたらい回しのものだと分かったのだ?」

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