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第十一章 第11話
「ああいうナースが一番困りますね…」
教授も幾分疲れた表情で心の底から同意しているかのように深く頷く。
「法令遵守は大変結構なことなのだが、彼女の場合は、何というか……自分の都合の良い部分だけを切り取って使っているようだ」
「そうですね。典型的な学級委員長タイプのような気が……あれだと部下は大変でしょうね。規則は守らなければならないのは当たり前ではありますが、規則のために人間は存在しているのではないと思います。特に病院は規則だけでは絶対に回りませんから…。
それにもし、法令遵守を第一に考えるならばリスクマネンジンメント委員会にも率先して報告してくれと言い出すのが本来の筋だと思うのですが…」
「そうだな……。やはり彼女は矛盾していて……私の理解の範疇を超えている。
さて、コーヒーを入れてくる」
彼がすらりと立ち上がった。教授の意見には頷く点が多い。が、行動は……。
「そんな……教授に入れて戴くなんて恐れ多いです」
唇を綻ばせて実に魅力的な微笑を見せてくれる彼に見惚れてしまった。制止する動作が一瞬止まる。
「気にするな。その代わり、どうしてあのメロンがたらい回しの物だと確信出来たか教えて欲しい。コーヒーはその授業料だ」
そう言い残すと秘書エリアに入って行く。
そうまで言われては仕方がない。お重を片付けコーヒー茶碗が置けるスペースを作る。包帯が邪魔だが、心配性の彼のためにも取ってしまうわけにはいかなかった。
教授がトレーに載せたコーヒーを静々と運んでくる。
お茶汲みに類する仕事をしている彼の姿を見るのは、教授室では初めてでとても新鮮だ。といってもいつもの白衣姿だったが。
「味はどうだ?」
祐樹が飲む様子を真剣な眼差しで見つめていた彼は心配そうに聞く。
「美味しいですよ。豆、替えましたか?それにカップもきちんと暖めてありますね」
本当に美味だったのでついつい最後まで飲んでしまう。
「いや、替えていない。いつか祐樹がしてくれた方法で入れてみただけだ」
ああ、そんなことも有ったなと思い出す。インスタントコーヒーを50回だか100回だかをかき混ぜる方法だ。律儀で几帳面な彼はちゃんと覚えてくれていたらしい。
「ありがとうございます。メロンですよね。あれは……、この辺の地理に詳しい人間だったら簡単な謎解きです。教授は着任されて一ヶ月ですし、それに余りこの辺のことをご存知ないでしょう?」
いささか不本意そうに彼は頷く。この若さで秘書を持ってしまったことを後悔しているような顔だった。
「清瀬師長が星川ナースの不祥事を知ってからこの教授室に来るまでにあのメロンの包装紙のお店で買い物をするのは不可能なんです。何しろ、あのメロンはこの界隈の果物屋さんの包装紙では無かったですから。百貨店にでも行かない限り……でも、そんな時間的な余裕は無かったハズです。手術室での出来事を報告されてから直ぐに事実関係を調査してその直後にここに来ているハズですから……時間的に百貨店は不可能です」
「ああ、それは祐樹の話の途中で何となく分かった。あの包装紙は有名な銀座の果物屋のものだということは……こちらの百貨店にもないのか?」
「それは分からないです。私も百貨店の店は詳しくないですから。ただ」
「この辺りには売っていない」
「そうです。もちろんこの病院の売店にも売っていません。それは自信を持って断言出来ます。
だったら答えは一つ。彼女が手術室への差し入れの品を流用したのか?それとも他の科の師長かナースに頼んだのかは分からないですが……まぁ、彼女のあの潔癖さを考えると他の科のナース仲間にお見舞いが必要なのだとそれだけを言った可能性が高そうですがね」
「だろうな……。他の科のナースも事情を知らずに陣中見舞いの品の中で一番高価そうな物をうっかりと渡してしまったのだろう……」
細い顎にしなやかな指を絡めて考えている様子も風情がある。
彼女の退室間際の視線を思い出す。彼女は幾分未練がましく「幾松」のお弁当の残骸を見ていた。よほど食べたかったのだろうか?そう思うとつい笑ってしまいたくなる。
「今度、星川ナースの件を聞きに行く時に『幾松』の特注のお弁当を持って行けば、彼女は喜んでいろいろ話してくれるかも知れないですね」
「そうだな。もちろん、自費という領収書付きが前提だが……」
彼も悪戯っぽい微苦笑を浮かべた。
「そうですね。あれだけ規則遵守と煩い方ですからね。っと、午後の鈴木さんの件は変更なしで構いませんよね?」
彼は祐樹のこととなると心配性だ。先手を打つに限る。案の定彼の瞳には懸念の色がある。
「『あの』清瀬師長を撃退したんですから……私の怪我は全く問題有りません」
「祐樹がそう言うなら。祐樹次第では私と長岡先生と柏木先生の3人だけで救急救命室に行く積りだったのだが……」
「担当医は私です。信頼関係を築くためにも是非ともご一緒したいのですが」
彼の思わず吸い込まれそうになる眼差しに向かって真摯に訴えた。
数秒後、彼の唇が開く。
「分かった。長岡先生たちとは救急救命室の前の廊下で待ち合わせをしている。そこに2時に行けば良い」
「有り難うございます。では、昼食ご馳走様でした。コーヒーもとても美味しかったです」
そう言って立ち上がりかける。彼と一緒に居ると、柏木先生の文書のことをつい口走ってしまいそうだったので。
彼の顔が微かに曇る。そんな彼の左腕を包帯越しに掴んでこちらにそっと引き寄せる。彼は安心したように目を閉じた。薄桃色の唇に掠めるだけのキスを落とす。刹那のキスの積りだったのだが。彼の少し開いた唇から幽かな水音がして祐樹の唇を辿っていく。その感触に溺れる。
祐樹も舌を出して彼の輪郭を辿る。その微細な感触がたまらないのか、彼の身体の力が抜けていくのが分かった。
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