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第十一章 第12話

 いつまでも唇の熱く冷たい不思議な感触を味わっていたかったのだが。そうなると次のステップに進みたくなる欲求が昂まるばかりだと思い知らされる。  最後に少し熱い彼の体を強く抱きしめると、名残惜しげに唇を離した。密やかな水音がやけにくっきりと聞こえた。背中に回っていた彼の指の力が一瞬強くなった後、背中に感じていた彼の指の感触が次第に遠ざかって行く。  是非とも今夜、逢瀬の機会を持ちたいものだと思った。彼とは離れたくない上に、杉田弁護士のアドバイスも確かめてみたかったので。  その時、隣の秘書エリアに人の気配がした。どうやらランチタイムから教授の秘書が戻って来たのだと知る。  彼もその音を聞いた瞬間、艶めいた表情からいつもの怜悧なものへと変化した。その辺りの切り替えも素晴らしい。 「ただ今戻りました。何か急な件でもありましたか?」 「いや、特にはないので朝頼んだ書類の入力作業の続きを至急お願いしたいのですが」  自分の怪我のせいで彼の仕事も後ろ倒しになってしまっているかもしれないと思う。そろそろ退散した方がいいだろうと思いつつも、ついつい話題を探してしまう。 「鈴木さんを救急救命室に連れて行って、彼のストレスを計る件ですが、あれは続行ですよね?」  裕樹が居なくても行えるサンプリングだが、主治医として是非参加したかった。それに、患者さんを医療に参加させるというプランはこの大学病院で聞いた限りは存在しない。  鈴木さんの今は良好な心臓の具合が悪くなる事態が起こってしまったら、鈴木さんの主治医である裕樹だけではなく、教授の進退にも関わる問題に発展しかねない。抜群の事務処理能力も持ち合わせている彼のことだ。救急救命室の北教授にも根回しは済ませているハズで……裕樹一人の都合で簡単には変更出来ない。 「鈴木さんの件は、ウチの長岡先生が内科的アプローチを今している筈だ。柏木先生も血中濃度を計るためにシリンジ(注射)を持って待機している。念のため私も同行する予定だが…。ゆ……田中先生は怪我が……」  口では遠慮しているようだが、雄弁な彼の瞳が言外に裕樹も来て欲しいと言っているように思えた。  柏木先生も優秀な外科医だし、教授も救急救命室での修羅場には慣れているので裕樹が居なくても特に問題はないように思えたが、どうしても付いて行きたかった。特に長岡先生は、優秀な内科医だが緊急事態には弱いタイプのようだ。彼女が居たら却って事態は悪化するだろう、万が一の場合には。決して悪気があるわけではなく。 「私の怪我は怪我のウチには入りません。それに提案者は私自身です。お邪魔はしませんから、是非同行させて下さいませんか?」  彼の瞳を凝視して目で訴える。口調は隣室の秘書を慮って普通のままだったが。 「そうだな……こちらからも長岡先生に強心剤入りのシリンジを持って行くように言ってあるが……万が一の時は、ゆ…田中先生が居てくれる方が何かと助かるのは事実だ。救急救命室のことも良く知っている上に普段から鈴木さんと接しているので、体調の変化にも気づくだろう?」 「ええ、強心剤入りのシリンジは私が持ちます。救急救命の説明をしながら鈴木さんの体調の変化を絶えずチェックしておきます」 「そうか……。では宜しく頼む」  彼も内心、ある意味で長岡先生ではアテにならないと踏んでいたのだろう。最悪の場合は自分で処置をするハズの心積もりのようだった。が、救急救命室がいかに聖域とはいえ、医師やナースの好奇心の目は光っているはずだ。そんな中で教授が動くと、ウワサはいずれ広まる。それは避けたい事態だった。 「了解致しました。血中濃度の判定ではタイムラグがどうしても出ますので、やはり普段から彼のことを良く知っている人間が居た方がベターです。では私はこれで。2時に救急救命室のスタッフ用の入り口で良いのですね?」 「ああ、長岡先生が鈴木さんに付き添って連れて来てくれる予定だ」  少し心許なかったが。彼女の緊急事態の対応度はサイアクだ。だが、病院内ではまさか迷子になるとも考えにくいが。 「私も鈴木さんの容態を事前にチェックしたいのですが……。この調査は万全を期したいので」 「そうして貰えると助かる」  彼の瞳に柔らかな光が広がる。先ほどの艶めいた視線もずっと見詰めて居たい衝動に駆られるが、こういう顔もとても新鮮だった。  彼と過ごす時間が増えて、裕樹が驚くほど多彩な表情を浮かべるようになった。信頼はしてくれているのだな……と思う。思い起こせばこんなにも表情を観察したいと思わせるような人間に出会ったのは初めてだ。それほどまでに惹かれている自分に驚く。  後ろ髪を引かれる気分で一礼し、静かに教授室を出た。背中に彼の視線を感じたまま。  白衣を着ていたのですぐに鈴木さんの所に行った。  驚いたことに長岡先生ではなく内科の内田先生が居た。二人に笑いかけた。 「お久しぶりです。先生は今日は外来診察日では?」  頭を下げると、彼はいかにも内科の医師らしい柔和な顔をほころばせた。 「そうなんですが…長岡先生から今日の検査のことを聞きまして少し顔出しをしておこうと同僚に無理を言って少し抜け出して来たのです」  長岡先生とはいつの間にそんなに親しくなったのだろうと思ったが、さして関心はなかった。視線で内田先生を隅に招く。 「先生からご覧になって、鈴木さんの容態は如何ですか?」  さっき見た限りでは鈴木さんはリラックスしている感じだったが、内科の内田先生の方が専門分野な上に付き合いも長い。彼の的確なアドバイスが欲しいところだった。 「最初伺った時には驚きましたが……今日鈴木さんと話をしてみて、彼が喜んでいるのが良く分かりました。病は気からという言葉通り、生活の質まで考慮に入れた治療法をなさるとは、流石ですね」 「では、大丈夫ですか?」 「ええ、先ほど血中濃度も測りました」  それは長岡先生の仕事だったハズ。彼女は一体何をしていたのだろうかとフト気になった。

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