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第十一章 第13話

「そうですか……それは良かったです。内科的に見ても問題は有りませんか?」 「ええ、大丈夫だと思料します。まぁ100%では有りませんが」  慎重な内科医らしく内田先生は明言を避けたが、その顔は満足そうだった。  確かに医療の世界に100%はない。ただ、その確率を上げて行くのが医師の役目だ。 「ところで、ウチの長岡先生は?確か鈴木さんに付き添っていたハズですが?」 「ああ、あの先生も優秀な方ですね。強心剤のカンフルを少し工夫したいとかで、後は頼むと急いでご自分の部屋に戻って行かれましたよ。あの先生の知識の量は物凄いですね」  強心剤のカンフルなど、製薬会社からの市販品を使えば良いのにと外科医の祐樹などは思うのだが、内科医はまた別の考えがあるのだろう。ただ、鈴木さんを救急救命室に連れて行くという件はどうなったのかと突っ込みを入れたくなったが。  時計を見れば1時半だった。 「すみません。少し鈴木さんのフォローをお願いします」 「ええ、それは構いませんが。その右手の包帯は?」  内田先生が心配そうに眉を顰めて質問してくる。どうやら、手術のトラブルのウワサは内科にまでは行っていないらしい。と言っても内田先生は午前中、外来患者の診察で大学病院のウワサを仕入れる機会は無かったのだろう。 「良くある手術中のミスです。大袈裟に包帯はしていますが、右手は何時も通り使えます。それに万が一の場合は左手も同じように動きますのでご心配には及びません。有り難うございます」 「そうですか。お大事になさって下さい。しかし、流石に外科の方は手先が器用で羨ましいです」  内田先生も患者さん思いの優秀な内科医だが、意外と不器用なのかも知れない。医師の世界にも適正は多種多様だ。外科医はどちらかというと度胸勝負の面が強い。それに思い切りの良さも。  香川教授も、外見からはとてもそうは見えないが手術の際にはかなり思い切ったことをする。彼の内面は外見からは窺えない度胸と思い切りの良さを持っていると踏んでいた。  鈴木さんに会釈をして、トイレに入る。病院用のトイレには全く色気はなかったが……白衣に着替える際にロッカーの中から白衣のポケットに移動させてきたRホテルの乳液の小さなプラスチックのフタを開ける。右手の包帯は見た目こそ仰々しいが、さすがに香川教授が巻き直してくれただけのことはある。動きに支障は全くないのが流石だった。  白い乳液を左掌に出して、肌が露出している両手首と首筋に塗布する。独特のスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。  祐樹もその香りに情事の思い出が喚起される。教授が気付いてくれればいいのだが。気付いてくれないと、絶望感に襲われるような気がした。  急いで病室に戻ると、内田先生と鈴木さんが談笑していた。一方がベッドに横たわっていて、もう一方が白衣を着ていなければ、信頼している会社の上司と部下に見えるだろう。この際、年齢的には鈴木さんの方が上なので鈴木さんのほうが上司といった感じだろうか。 「鈴木さん、体調は如何ですか?」  祐樹が笑いかけながら言うと、鈴木さんは嬉しそうに笑い返してくれた。 「今、内田先生とも話していたのですが……病院のベッドに縛り付けられていると余計イライラするので……今日が来るのがとても楽しみでした」 「そうですか。それは良かったです。そろそろ救急救命室に行くことにしましょうか?」  長岡先生が戻って来ないことは気になったが、香川外科のスタッフと、救急救命室からも数人はこの企画に参加しているハズだ。患者さんの都合なら仕方がないが、それ以外のことで開始時間が遅れることが有ってはならない。 「救急救命室は特殊な場所ですので、色々なことも説明しますから……遠慮なく聞いて下さいね」  リラックスしているように見える鈴木さんの脈を取る。脈拍はいつもと同じだった。 「それと、場面場面でストレスを計るために血液採取を行いますが注射は大丈夫ですよね?」 「ええ、大丈夫です。血中濃度でストレスまで分かるのですか?」  祐樹にではなく内田先生に向かって聞く。内科医の方がその点では頼りになると踏んだのだろう。事実、その通りなので腹は立たない。 「ええ、ストレスを感じているかどうかは、血液の成分を分析することで分かります。確か、香川外科の柏木先生は『手術中の患者さんのストレス変化及び術式について』という論文を発表していませんでしたか?」  内田先生は祐樹に向かって言った。内田先生は論文を数多く読んでいるようだ。その真摯な仕事振りには頭が下がる。特に、外科医の論文まで網羅している辺り。実は祐樹はくだんの論文を読んでいないので内心忸怩たる思いだった。「診察がありますので」と帰って行く内田先生に深く頭を下げた。 「そろそろ行きますか?今は点滴も外れていますし、車椅子を使用されますか?それとも自力で歩いて行かれますか?」 「歩けます。ただ、万が一のために車椅子を持って来て欲しいとお願いするのは失礼です…よね?」 「いえ、全く……。では車椅子を持って出かけましょう」  内田先生に会釈すると、病室を出た。ゆっくり鈴木さんの病気にはゆっくり歩くことが絶対に必要だ。なので時間を逆算するとこの時間に出なければならない。長岡先生が戻って来ないのが気になったが、彼女を待っていたのでは鈴木さんに無理が掛かる。それだけは避けたい。彼女だって、立派な大人だ。  多分、病室に鈴木さんが居なければ救急救命室だと思ってくれるだろう。彼女のことだから油断は出来ないが。最悪、彼女が居なくてもこの企画には問題はない。強心剤のカンフルやシリンジ(注射)は救急救命室に腐る程あるのだから。鈴木さんが発作を起こせば、祐樹がそれを注射すればコトは収まる。  鈴木さんは心配そうな声で手の包帯のことを聞いて来た。やはりかなり目立つらしい。  歩きながら話せるというのは、かなり鈴木さんの容態が良い証拠だ。救急救命室のスタッフ入り口のところには、教授と柏木先生が居た。  彼が一瞬、桜の花弁のような微笑を祐樹に向かって投げた後、怪訝そうな顔をした。 「長岡先生は?」 「何でも、強心剤のカンフルを新規に作るとかで……」  その時、長岡先生が息を弾ませて大きなトレーを抱えて現れた。 「すみません。鈴木さんの病室には、今から行ってきます。カンフルを症状別に作っていたら遅くなってしまって…」 「いえ、鈴木さんは、ゆ…田中先生が連れて来て下さっています」  彼の傍にさり気無く近付く。香りに気付いてくれますようにと願いながら。

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