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第十一章 第14話
長岡先生の視線が感謝の意を表明するように祐樹に向けられている。
祐樹は長岡先生の視線を感じながらも――医師の不手際は有ってはならないことだが、長岡先生ならば仕方がない――という諦念もあった。オリジナルの強心剤のカンフルを割りもせずに救急救命室に持って来られただけでも進歩だな……と思って会釈だけをすることにする。もともとそんなに親しくはない。教授のプライベートを知る恐らく唯一の人間なので、話してみたかったが。
香川教授が彼女の内科医としての腕を買っているのは承知の上だが、それ以外にも彼女を放っておけなくなる気持ちも分かるような気がする。教授も祐樹も一人っ子で長男だ。きっと、危なっかしい妹を見ているような感じなのだろうと思う。彼女の婚約者の顔を拝んでみたい――とても包容力があるのだろう。あるいは単なる怖いもの知らずなのか?――と思ってしまった。
祐樹が教授に近付くと、祐樹が纏っている香りをいち早く察知したようだった。
刹那の間だったのだが、彼の瞳に妖艶な輝きが浮かんだ。直ぐにその光は消えてしまったが、遣る瀬無い顔をしている。
十分、祐樹の誘いは分かったハズなので、彼の澄んだ瞳を凝視する。
彼は眼差しで「分かった」という返事を返してくれた。その瞳が幽かに潤んでいた。
その様子を長岡先生が見ていたが、彼女なら――何と言っても香川教授に心酔している上に婚約者まで居る。――香川教授についてのウワサは流さないだろう。
教授が香りのメッセージに気付いてくれたことに内心では喜びを隠せなかった。が、仕事中だ。
柏木先生も空のシリンジ(注射器)を多数持参している。血中濃度をコマメに測るつもりらしい。そして血液を保存するための容器も。
「長岡先生、万が一の時には、ゆ…田中先生がカンフルを注射しますので……その効果を説明して下さいませんか?」
トレーには12本ものシリンジが並んでいた。強心剤は一種類だけだと思っていた祐樹などは開いた口が塞がらない。
長岡先生が立て板に水と言った感じで説明をしてくれるが……12本の効用の違いが、あまりピンと来ない。祐樹の頭脳のせいなのか?と思って、教授と柏木先生の顔を見る。2人とも呆気に取られた表情をしていたので、自分だけではなかったことに少し安堵した。
「要するに、一番重篤な発作を起こした時には、一番右側のこのシリンジを使用する。左側から順番に強心剤の効き目を高くしたという理解でいいでしょうか?」
その場の責任者である教授が念押しをする。長岡先生は、余程急いで調剤をしてこちらに駆けつけたのだろう。化粧がところどころ崩れていた。白衣の下は相変わらず上品な色のスーツらしいが。
「はい。そうです。急いで作ったのですが、香川教授のお陰で随分と強心剤のジキタリス調剤には詳しくなりましたので、鈴木さんの身体に合わせて想定しうる限りの薬を作りました」
こういう説明をしている時の彼女はとても明晰で自信に満ちた話し方をする。が、自分の専門外のことや、緊急事態になった時にはどうしてあれほど自信無げになるのか……不思議な女性だな……と思う。
祐樹は、万が一鈴木さんに発作が起こった時には迷わず一番右のシリンジを使おうとそれだけを頭に入れて、鈴木さんの様子をこっそりと観察する。が、彼はすっかりリラックスしているようだった。香川教授もこの場に居るということで安心しているのかもしれなない。遠慮したのか、香川教授と顔を合わせた時に深深と頭を下げただけで話しかけてはいなかったが。
「では、そろそろ入ります。大丈夫ですか?鈴木さん」
教授がそう行ったのを合図に長岡先生がドアを開ける。こういう点は、機転を利かせることが出来るのだな……と思う。
鈴木さんは興味深そうな表情を浮かべるだけで緊張している様子は全く窺えない。
香川教授を先頭に救急救命室に入った。
運が良かったのか、現在治療中の患者さんはおらず、阿部師長が待ち構えていた。そしてその背後にはこの部屋に居ることが珍しい――と言ってもこの部屋の責任者なのだが――北教授の姿もある。流石に前代未聞のこのプロジェクトには責任者として顔を出す方が良いと判断したのだろう。
「北教授、この度はご許可を戴いて有り難うございます」
ポジションは同じだが、年齢的に隔たりがあるので、香川教授も丁寧に挨拶をする。といっても、彼がぞんざいな口調で話すのを聞いたことがなかったのだが。誰に対しても丁寧な口調で話していた。
「いやいや。火の車のウチに助っ人は送り込んでくれるわ、今回の件では素晴らしいアイデァを出してくれるわで助かっている。恩に着るよ」
「いえ、教授には、いつぞやの教授会で助けて頂きましたし……あの時は有り難うございました」
「別に助けたつもりはない。私が常々思っていることを言ったまでだ。内科や精神科の教授達は、外科の過酷さを知らないからこそ、ああいったことが主張出来るのだ。全く、一度は見学にでも来てからモノを言えと言いたくなる。で勇気ある、患者さんとはこの方かね?」
北教授は鈴木さんの方を迷わず見た。それはそうだろう。白衣の中で1人だけパジャマ姿なのだから。阿部師長も北教授が話しているので、黙っている。彼女にしては珍しいが、上司の顔を立てるつもりだろう。
北教授の顔が訝しそうな表情を浮かべる。
「お久しぶりです。北先生。教授になられたのですか?それはおめでとうございます」
落ち着いた声で鈴木さんは言った。
2人は知り合いだったのか?と思った。
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