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第十一章 第15話

 北教授が顔を輝かせた。 「ああ、確か阪神淡路大震災の時に……医療ボランティアでお目にかかりましたよね?」 「ええ、そうです。ご無沙汰しておりました。ただ、ボランティアの時は所属先など伺っておりませんでしたので……救急救命医の北先生としか」 「こちらこそあの時はご尽力戴いて、今日の患者さんの名前は勿論香川教授の方から報告戴いていたのですが…」 「お互い、ありきたりな名前ですからね…」  2人して笑い合っている。余程この邂逅が嬉しかったようだ。  北教授と鈴木さんが震災の時に長田区でボランティア活動をしていたのは知っていたが、まさか知り合い、それもかなり親しみの気持ちを持つほどの接点があるとは思っても居なかった。長岡先生は、先ほどの明晰な口調や表情はどこへやら、自分の付いていけない会話が交わされていることに狼狽したのか――別に慌てる必要は全くないシュチュエーションだったのだが――優等生がフト出来心で万引きをしてしまい店を出る瞬間に店員に誰何されたらこんなに周章狼狽するだろうな……という感じだった。  何故そこまで過剰反応をするのかはナゾだ。多分合理的な説明は彼女だって出来ないだろう。話の輪の中に入るべきか、それとも教授に任せるか?その判断を仰ぐために彼の顔をチラリと見た。  彼は幾分目を潤ませてはいたが、後は至って涼しげで怜悧な表情を浮かべている。祐樹と目が合うと、ごくごく小さな変化だが、仄かに目蓋を紅くして喋ってくれ……と言いたそうな表情を作る。 「お2人はお知り合いだったのですか?」  担当医として鈴木さんに声を掛ける。一介の研修医風情が教授に話しかけるわけにはいかないので。  香川教授も同じポジションだが、こちらは特別な関係もあるので、2人きりの時には結構遠慮なく接しているが。 「ええ、大震災の時に、私はたまたま長田区にあるウチの会社の工場に視察に行っていたのです。幸いなことに当時寝ていた部屋の建物が頑丈だったのか、怪我一つしませんでした。で、被災者の救出やら見よう見まねの看護をしていたのです。まあ、ナースの資格を持つ方の指導はありましたがね。その内、医師の先生達もボランティアとして駆けつけて下さいましたが……みんな動きがバラバラなんです。私も人を使う立場の人間だったので、『私ならこう人員を配置する』と思っていましたが、資格のない人間の悲しさで、発言など出来ません。そんな時です。K大学のボランティアチームが駆けつけて下さったのは。あの時の先生の采配振りは見事の一言です」  北教授はその当時の自分の行動を恥じるような顔をしている。 「いやいや、無我夢中で緊急医療体制を作っただけですよ。その指示に最も的確に答えて下さったのが医師の資格をお持ちではなかった鈴木さんです」 「あの時は、『この先生の仰ることは神様のご託宣と同じだからその指示に従っていれば間違いはない』と確信しました」 「それは買い被り過ぎですな……」  北教授は照れたように笑った。鈴木さんは真剣な表情で言い募る。 「後で聞きましたが…特殊な医大のスタッフも長田区という一番一番震災の被害が甚大だった所ですが…の医療エリアに駆けつけて来ていたとか。聞くところによるとあちらの大学はは自衛隊の軍医……昔風に言うとそうなりますな……を育成する大学だそうですね。それなのに、緊急事態ではリーダーシップを執れなかった。北先生……いや、今は北教授の神業の判断力と人員配置、そして医療インフラを構築する力は本物でした。あの経験で、私もリーダーが優れていなければ何にも出来ないということを肝に銘じました。北先生……いや、北教授のお手伝いが再び出来るのかと思うと、より一層嬉しくなります」  少し興奮気味に話す鈴木さんの脈を北教授は一撫でした。それだけで分かったらしい。 「鈴木さんの脈は平常値だ。まずは田中先生に救急救命室のことを教えて貰って下さい。私も鈴木さんの様子を見ていますから」  祐樹が備品の説明をする。彼の顔色は確かに通常のレベルだった。  その時、受信のみの緊急の電話が鳴る。 「バイクの自損事故発生。大腿骨骨折有りです」  新人だろう、若いナースが電話を取って報告する。阿部師長はキっと眼差しを強くして彼女に命じる。 「受けて」 「了解しました。受け入れ準備します」  祐樹は大腿骨骨折がどんなものかは当然知っている。鈴木さんなら大丈夫だと踏んではいたが、先ほどの内田先生の言葉通り100%ではない。チラリと北教授を見た。彼が最も鈴木さんとは親しそうだったので。 「彼なら大丈夫だ。もっと悲惨な患者さん……というと語弊があるな……命が助かるかもしれないが、手が掛かる患者さんは、ああいう修羅場では優先順位が下がる。そういった悲惨な方々を見て来た人だ」  間もなく救急車のサイレンが近付いて来る。ストレッチャーを持ったナースを従えて阿部師長が搬送口まで走って行く。  祐樹は念のため、一番強い強心剤のシリンジをそっと持って鈴木さんの傍に寄った。  その様子を教授の深みのある眼差しが追ってくるのが分かった。こんな時なのに、つい幸せな気分になってしまう。  ストレッチャーに載せられた患者が運ばれて来る。顔は真っ青というより白に近い。 「大腿骨骨折が血管を突き破っている可能性があるわね。すぐにCTを」  阿部師長が指示を下す。北教授が満足そうに頷いている。鈴木さんは、患者さんを痛ましそうには見ているが格別の動揺は感じられない。 「太腿の動脈に大腿骨が刺さっています」  CTを見た医師がそう報告する。その画像を覗き込んだ香川教授が一瞬躊躇った表情を浮かべる。 「大腿骨の動脈は我々の十八番です。北教授、田中先生、柏木先生に任せて戴いて宜しいでしょうか?」  教授の涼しげな声が緊迫した救急救命室に凛と響きわたる。

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