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第十一章 第17話

 患者さんがICU(集中治療室)に搬送されたので祐樹は額の脂汗を手で拭った。それを見ていた教授が自分のハンカチを微笑みながら渡してくれる。が、一目見てそのブランドマークに驚く。彼のネクタイと同じフランスの超高級ブランドだった。ハンカチ一枚がどんな値段なのかは全く見当も付かないが、いつか百貨店のハンカチ売り場を通りかかった時に一枚1000円のブランド物のハンカチを売っていたのはおぼろげながら記憶している。それ以上に高価であることは誰だって分かる。 「いえ、そんなハンカチで汗は拭えません」 「いいから。期待以上に応えてくれた、ゆ…田中先生には感謝をしている」  そう言って強引に押し付けられた。自分などの汗を拭いてしまっていいのだろうかという疑問を感じながら額の汗を拭いた。白いハンカチは祐樹が手術用手袋越しに持ったために赤く染まってしまっている。このハンカチは二度とあの綺麗な白い色には戻らないだろうと後悔する。   長岡先生の張り詰めた緊張の糸が切れたらしい。ずっと座り込んでいる。思わず近寄って「大丈夫ですか?」と声を掛けようとした。  彼女がしゃがみこんでいたので、祐樹も視線の高さを同じようにしようと膝を折った。  すると、白衣の布地に滲みこんでいた患者さんの血液が力を入れているところが変わったせいか。ボトボトっと、床に落ちた。  それを見た瞬間、彼女はふらっと倒れこむ。慌てて支えようとしたが、血液の付いた手で触るのもどうかと躊躇する。と、阿部師長が素早く彼女を打撲から救う。彼女の脈と目蓋の裏をチェックしてから少し呆れた声で言った。 「脳貧血だわ。どこか空いているベッドに寝かせて」  阿部師長の視線に促された一人の先生が彼女を抱きかかえてベッドに運ぶ。流石に細いとはいえ人間の身体をベッドに運ぶのは女性では手に余るようだ。  香川教授も阿部師長の診立てに間違いはないと踏んでいるのだろう。一瞬、心配そうな色を浮かべたが、直ぐに普段の仕事用の怜悧な表情に戻った。香川教授は、シリンジから血液を取り出し、保存検査用の容器に収めてある――これは多分、長岡先生が行ったものだろう――に付箋を貼り付ける作業をしていた。  祐樹も製薬会社の営業さんから貰った覚えのある付箋紙だった。  そういえば、あの付箋に自分の携帯番号を書いて教授に渡したことがあったなと、あれから一月程度しか経っていないのに妙に懐かしく思い出された。あの頃は彼とこんな関係になるとは全く考えていなかったが。  教授は付箋紙を張った容器を一つ一つ鈴木さんに見せ、確認している。  鈴木さんは流石に救急救命室の修羅場とは比べ物にならなかったと思われる阪神淡路大震災の医療ボランティアだ。長岡先生が脳貧血で倒れたのとは対照的で、何だか顔つきに生気がみなぎっている。 「拝見したところ、異状はないようで、何よりです」 「ええ、素晴らしい治療を見せて戴きました。私がすべきことが分かりましたよ。先生やナースさん達が備品を使うたびに全部リストアップすればいいのですよね?」 「そうです。今回は一件だけなのでまだまだ余裕は有りましたが、重なる時はもっと重なるので物品の数がどうしても合わなくなるのです。どれだけを使ったかを記録して戴ければ有り難いのですが…」 「ああ、その手段なら考えました。別に今からでもいいですよ……」  すっかり乗り気の鈴木さんに感謝の笑みを浮かべる、苦笑混じりに。 「それが……採取した血液をこちらの柏木先生に検査してもらってからになります。ストレスを感じているかもしれないので」  鈴木さんは苦笑いをした。 「何だか、震災の時に戻ったような気分です。北教授のお役に立てる日が来るとは思いも寄らなかったので、つい先走ってしまいました。検査結果が出て異状がなかったら良いのですが……」  傍に居た教授は一瞬祐樹と視線を絡ませる。彼もすっかりリラックスした表情だ。視線だけで微笑を浮かべて居るのが、とても涼しげだ。 「これで間違いはありませんね?」 「ええ、そうです。この大学の教授は流石ですね。香川教授は処置を心配そうに見ておられたのに、私の血液採取の時間と、その状況までを僅かなメモだけで暗記されていらっしゃるとは……」  鈴木さんの視線の先にはさっき祐樹が見ていた付箋紙がある。その付箋紙には教授の几帳面で綺麗な字で採取時間と祐樹達の処置の詳細が細かい字で書いてあった。  本来ならば、検査用のケースには間違い防止のためにシールを貼るのだが。シールだと書く表面積が少なくなる。それに、柏木先生も特別な検査なので他の物と混じることがないように気をつけるだろう。教授はケースを纏めると柏木先生に渡した。柏木先生は祐樹よりはマシだがやはり白衣に血は飛んでいる。だがこの程度なら院内は歩ける。ただし、スタッフ用の通路に限るが。手早い彼は手術用の使い捨て手袋は脱いでいた。直ぐに血液検査に取り掛かるつもりのようだ。教授と北教授に目礼し、祐樹に一瞬、お疲れ様といった一瞥を投げると部屋から出て行った。 「長岡先生は、休んでいれば大丈夫だから。田中先生、お疲れ様。こき使って御免ね。まぁいつものことよね、あはは。で、白衣も血まみれだし、シャワー室使って汗と血を流したらいいと思うわ」 「そうですね……そうします」  泊り込み勤務が多い救急救命室には簡易シャワー室がある。そして、私費で着替えも置いてあるのだ。 「ゆ…田中先生は、手に怪我をしているので…念のため付いて行きます」  白皙の顔を僅かに紅く染めた教授が言った。阿部師長は意味ありげにニンマリとと笑う。 「部下思いの優しい教授に恵まれて良かったわね」  口ではそんなことを言っているが、肩は震えている。大笑いしたいのを我慢しているのだろう。 「北教授も尊敬に値する素晴らしい方じゃないですか?」  反論していると北教授もやって来た。 「田中先生は、まだ研修医だったな……どうだね?心臓外科を辞めてウチに来ないか?ウチ向きの人材だと思うのだが。優遇するよ」 「有り難うございます。私も救急救命医を目指してみたくなりました」  教授の顔を気付かれないように注意深く窺いながら心にもないことを言った。

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