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第十一章 第18話

「そうかね……それは嬉しいな、田中先生の手腕は以前から見ていたのだよ。判断が的確で処置が早い。これは鍛えたらモノになると……。今日実際に見てその判断に狂いはなかった」  以前から見ていた?北教授の姿を救急救命室で拝見したことはない。どういうことだろうかと思ったが。  それ以上に気になったのが香川教授の表情の変化だ。先ほどの心にもないセリフの後、彼の瞳にいつも宿っている水晶の輝きは失せ、綺麗なガラス玉のようになっている。唇は笑いの形に刻んでいるがそれも生気がない。何だか水分不足で朽ちてしまった若木のような感じだった。  こんな表情の彼を見たのは初めてで、祐樹は少し焦った。何しろ自分のフトした悪戯心から言ってしまった冗談だったので。 「以前から?しかし、この部屋で教授をお見かけしたことはないハズですが?」 「香川教授と田中先生に後で良いものを見せてやろう。先に血を洗い流して来給え」 「先ほどの件ですが……香川教授にクビだと言われたら、是非こちらでお世話になりたいです」  北教授は面白そうに笑った。どちらかと言えば冗談が好きなタイプなのか?と思う。 「香川外科の懐刀と呼ばれている田中先生を本気でスカウトする気なんか無い。ただ、先ほどの処置が優れていたので、ツイツイ下心が芽生えたというところだな」  香川教授の表情を観察していると、やっと瞳にいつものように涼やかな光を宿している。微笑も先ほどの作り物めいた感じは払拭されている。 「ええ、香川教授に見捨てられないようには頑張りますが、万が一にでも愛想を尽かされた場合はこちらでお世話になります」  もう一度念押しをする。するとやっと元の精神状態に戻ったのか、香川教授は一瞬恨んだような眼差しを祐樹に向けた。祐樹が謝意を込めた視線を返すと彼は柔らかな光を帯びた瞳になる。 「ウチでミスをしたら、遠慮なく北教授にお譲り致しますのでどうかご指導下さい」  笑いを含んだ声で答えている。彼は、白衣の下から覗くネクタイを締めなおしている。おや?と思った。救急救命室の前で待ち合わせた時は、ネクタイは几帳面に結ばれていたと記憶している。いつの間に彼はネクタイを緩めたのだろうか? 「ああ、その時は、ビシビシと指導して、ここの医療責任者になって貰うことにしよう」  それはかなり怖い。出来ればそんな恐怖を味わいたくない。救急救命室は24時間体制でずっと回っている。そんなところの責任者になってしまったら何日間かは寝られない日々が続くだろう。 「ところで、良いものとは?」  香川教授がネクタイを几帳面に締めてから聞いた。彼の白くしなやかな指の動きは、それだけで艶を感じさせる。救急救命室のナースもうっとりとした視線で彼をチラチラ見ている。それが面白くない。 「それは田中先生のシャワーの後で」  そう言ってから、備品のケースの棚を注意深く観察でもしながら歩き回っている鈴木さんに向かって言った。 「鈴木さんも興味が有ればいらっしゃいますか?」 「宜しいのでしょうか?部外者なのに……」 「貴方ほどの危機管理能力と事務処理能力を持った方にはきっとお気に召すと思いますよ」  北教授は余程この邂逅が嬉しかったようだ。鈴木さんもだろうが。 「では、早速シャワーを浴びに行って参ります」  その言葉に教授は近くに居たナースに外傷用の手当ての道具一式を貸して貰おうとした。 「とんでもない……怪我の手当てなら私たちで出来ます。教授自らがなさることではないですので、私が」  教授の顔をうっとりと見詰めてナースが言う。 「そうです。田中先生の手当ては私達が致しますのでどうか、教授は北教授とお話でもなさっていて下さい。教授が怪我の手当てをするなんて前代未聞ですから」  彼女達の思惑…いや、下心か?は別のところにあるとはいえ、正論は正論だ。怪我の消毒などはナースの職務だ、通常は。医師の資格は医療分野では一番上なのでナースの仕事も法律上はこなせるが、四角四面の大学病院は医師の仕事とナースの仕事は重ならない。 「あなた達、いい加減に通常業務に戻りなさい。香川教授、田中先生の怪我って右手だったわよね?外科医にとって手の怪我がどういう意味を持つか分かってらっしゃるからこそ、教授が御覧になるって仰っているの。ナースの分際で教授判断に逆らわない!」  長岡先生の傍で彼女の容態をチェックしていた阿部師長が助け舟を出してくれた。先ほどまでは笑いを堪えているような面白そうな顔だったのだが。  そうか…そういう逃げ口上があったのか…と祐樹はどうして自分がそのことに気付かなかったのかと後悔の臍を噛んだ。気付かなかった理由は分かっている。ちょっとした悪戯心から彼にあんな表情をさせてしまったことへの罪悪感に駆られていたからだ。  教授も安堵の表情を浮かべて、阿部師長に向かって――というか、この部屋に居る皆に聞こえるようにだろう――静かな口調で言った。 「田中先生の傷は手術中にメスで切ったので……マイクロサージェリー医の資格を持つ私が診たいと思ったのです。済みませんが、その道具一式を貸して下さい」  そう言って有無を言わせず、ナースの手から処置道具一式を手中に収めた。  マイクロサージェリー医…?聞いたことは有る。神経や腱などのデリケートな働きをする部分を治す専門医だ。この大学病院には居ないハズだが。例えば、ピアニストが交通事故などで手に怪我をした場合、手術の最後の仕上げをする専門医だ。 「さ、行こう」  そう言って香川教授がシャワー室に向かって歩き出す。マイクロサージェリー専門医という肩書きを知っている者は尊敬の眼差しで香川教授を見、知らない者は「何だか凄い専門分野なのだろう」とポカンとしている。そのためだろう。処置はこの部屋でも十分出来るということに――むしろ、そちらの方が当たり前だ――気付いたものは居ない。少なくともそう突っ込む人間は居なかった。耳慣れない単語に皆毒気を抜かれたようだった。  男2人が入ると狭いシャワーブースに入ると、彼は幾分震える手で手術用手袋を脱がしてくれた。その後、包帯を器用に外して怪我のチェックをしている。 「良かった。再出血はしていない」  心の底から安堵した声と、彼の薄紅色に薫る顔を見ると、衝動的に抱き締めたくなった。

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