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第十一章 第19話

 彼に手を預けたままで、疑問に思っていたことを聞いた。彼はこれ以上ないほど丁寧に祐樹の怪我をイソジン消毒し、薬を塗布している。 「貴方は、いつマイクロサージェリー医の資格を取得したのですか?」  日本に帰国してからの彼の行動は全て知っている。最初は監視から、途中からは…多分愛情から。ずっと彼を見ていた。  実用一点張りのシャワーブースだ。祐樹は壁に凭れて彼に右手を差し出している。教授は白衣とスラックスに水分が付くのも構わずに膝を折って祐樹の怪我を注意深く診ている。  その彼がフト顔を上げた。そこには悪戯っ子のような表情を浮かべている。 「祐樹、そんなことも知らなかったのか?いつも一緒に居るクセに…」 「済みません。不覚にも存知上げませんでした」  そう言うと、彼の目が悲しそうに瞬いた。 「貴方のことは何でも知って置きたいと言っていたのに、本当に申し訳ありません。先ほどといい、今回の件といい…」  慌てて謝罪する、心の底から。彼の肩が小刻みに震えている。不審に思っていると。 「マイクロサージェリー医の資格は、半分は嘘だ。日本のものは持っていない。向こうでは暇つぶしも兼ねて取得したが。だから日本でそう名乗るのは厳密に言うと間違いだな……。祐樹の怪我が気になったので早く診たかった。だから咄嗟にあんな嘘を」 「嘘だったのですか?びっくりしました」 「私だってさっきは本当に肝を冷やした。そのお返しだ」  少し唇を曲げて彼は言う。そういう自然な表情も実に魅力的だ。器用に包帯を巻きつけると、これからシャワーを浴びる祐樹を慮ったのだろう。防水用のテープを丹念に貼ってくれた。 「あれは…ほんの悪戯心で…申し訳ありませんでした」  ただ、アメリカのマイクロサージェリー医の資格を取得済みなら、日本の試験は免除になる可能性もある。それに、日本では医師の呼称は様々で本人がそうだと言い張れば、それで通ってしまうことのほうが多い。長岡先生――今回は最初の方こそ、良く頑張っていたが最後は祐樹の白衣の血を見て脳貧血を起こしたが、まあ、誰にも迷惑は掛けていないのでそれは良かったが――だって、本来は内科が専門だが、香川外科に籍を置いているので外科医と名乗っていて、それが通る世界だ。香川教授の手技ならば、マイクロサージェリー専門医と名乗るに相応しいと判断されるだろう。  しかし、暇つぶし?もし、執刀医として手術をこなしながら――アメリカは州ごとに法律が違うので、医師免許も衆ごとに違うと聞いているので専門医の認定がどのようになっているかは全く分からないが――何らかの勉強なり修行なりを必要とする資格だったら恋愛に割く時間は少なくなるな…とフト思う。  祐樹の右手を心配そうに曲げたり伸ばしたりして様子を見ていた教授がポツリと言う。 「本当は、祐樹の右手が心配で…私が代わりに処置をしたかった…だが、あの場ではそれは許されない状況だった。祐樹なら処置はつつがなくしてくれると予測していたが、怪我だけが不安材料だった。有り難う」  そう言って、怪我に触れるだけの口付けを落としてくれた。 「ああ、そのキスだけで治りそうですよ……それに私は教授の部下です。貴方がしろとお命じになれば何でもします。それにそんなに心配して下さったなんて……」  彼は後悔の滲んだ苦い口調で言った。 「あの場に居た医師で、大腿骨の大動脈を扱える人間は北教授と私、そして祐樹と柏木先生だけだと踏んだ。本当は私がしたかったのだが、大学病院のヘンな陋習のせいで…あの場に北教授がいらっしゃらなかったら、祐樹の怪我が心配だったので私がしていただろう……」 「大丈夫です。私は貴方の懐刀と呼ばれているそうですから、教授の代わりに出来ることは何でもしますよ。怪我で手が動かなかったら正直にそう申告します。心配することなんて…何もないです。  ただ、マイクロサージェリー医の件は嘘だと知ってびっくりしましたが。貴方なら何を取得していてもおかしくはないですから」  彼は真摯で静謐な眼差しを祐樹に当てる。 「手術中は心配した。つい呼吸が苦しくなってネクタイを緩めたほどだ。祐樹の手に余計な負担を掛けているのではないかと・・・…。  それと、祐樹には、嘘はつかない」  それでネクタイが緩んでいたのかと納得する。しかし、律儀で几帳面な彼は、誰にも嘘は吐かないような気がしたのだが。 「そうですか?それは光栄です。こんなところでなければ・・・また私の白衣がこんな状態でなければ抱きついてキスをしたいところです」  彼は祐樹を揺らぐ眼差しで凝視した。 「今夜、逢ってくれるのだろう?」 「ええ、もちろんです。気付いて下さって嬉しいです」 「それは気付くなというほうが無理だ。……では、勤務時間が終ったら、大阪で待っている」  意味深な発言の真意を質そうとした時に彼の細い身体が祐樹に近付き、器用に身体を離して唇だけに触れるキスを仕掛けてきた。  白衣も何もかもが血塗れなのは自覚していたので、祐樹は彼の身体のどこにも触れることが出来ない。彼の冷ややかな唇の感触だけを感じる。長い時間が経ったようにも思えるが、実際は一分くらいだったのだろう。以前祐樹が教えた通りに、彼の深く澄んだ眼差しは祐樹の目の傍までは開いていて、その後閉じられた。唇だけの接触が却って新鮮で胸が高鳴るのを感じる。  そして、祐樹の頬に彼の指がなぞる動きをした。 「血が付いていたので」 「ああ、直ぐにシャワーを使います。綺麗な素肌で血を触らないで下さい」 「血?血液なら別に平気だ。祐樹の血でない限り」  そんな言葉を口にすると、彼はすっとシャワー室から出て行った。流石に長い間籠もっていてはマズイと判断したのだろう。処置用の物も全て運び出してくれたようだった。  気を取り直してシャワーを浴びる。  それにしても、北教授は何故祐樹が適任だと判断したのだろうか?阿部師長に陣頭指揮は任せてあるハズなのに?

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