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第十一章 第20話
白衣も、その下の衣服も全て脱ぎ、手早くシャワーを浴びる。最初の方は、排水溝に流れ込んで行くお湯が薄い赤色をしていたが、それはいつものことだ。教授は頬に血が飛んでいることを教えてくれていたので……多分その調子なら髪にも微量の血液は飛んでいるだろう。身体を洗うついでに髪の毛も洗った。備え付けのシャンプーとリンスが一回で出来るスグレモノだ。こういう便利なものに多忙な救急救命医は随分と救われている。
シャワールームの上方に有る棚からバスタオルを取って身体を拭く。バスタオルはナースがリネン室で洗ってくれるので清潔だが、皆が使いまわしをしている上に予算の関係でかなりくたびれている、まあ祐樹にとっては身体を拭えればそれだけで十分だが。
シャワーブースの横がロッカールームになっているので、白衣も含めて着替えは全てそこに置いてある。大急ぎで服を着て救急救命室に戻った。
長岡先生は脳貧血から復活したらしい。鈴木さんの血液をキビキビとした動作で採取している。その横には香川教授と北教授がまるで親子――といっても年齢面だけで顔やスタイルに共通点はない――のように並んでいる。
処置中の患者さんは?とベッドを見たら、今度は自殺未遂だろうか?胃洗浄の患者さんだった。そういえば胃液特有の臭いが救急救命室に漂っている。
祐樹が救急救命室の入って行くと、真っ先に気付いたのが教授だった。先ほどの唇の感触が蘇る。彼はちらりと周囲を見回し、誰も見ていないことを確かめると祐樹に眼差しだけで微笑を送ってくれた。こちらも送り返して、ゆっくりと鈴木さんの方に近寄った。
北教授が祐樹に気付いた。
「先ほどはご苦労様。ただウチも人材不足で…ここに居る医師の中であの治療が可能なのは、私と香川教授。そして田中先生だけだと判断した…他の医師は危なっかしいからな、ああいう症例は」
「有り難うございます。ところであの患者さんは?」
「今はICUだが・・・もう心配はないだろう。バイタルサインが落ち着いたらバックヤードの…外科の病棟に入院は必要だろうが」
救急救命室に入院設備はない。救急の処置だけして、容態が落ち着いたら外科なり内科なりの病棟に上げるのが一般的だ。
「患者さんの命が助かって良かったです。ところで鈴木さん、ご気分の方は如何ですか?」
自分のベッドに横たわっている時よりも生気に満ち溢れていたが、一応聞いてみる。
「こういうことを言うと不謹慎ですが……こういう動的な場所の方が落ち着きます。やはり黙って寝ているよりも緊張感が漲っている場所に身を置く方が私には合っているようです」
本当にそんな感じだった。この顔色なら救急救命室でのボランティア活動も支障はないだろう。
「今回は、胃液のようですが……血や内臓の臭いは気になりませんか?」
殆どの一般人が医療行為の最中に抵抗感を感じるのは、血などの臭いだ。
「私はどうもそういうことに関して鈍感のようですな。北教授に震災時に言われたことがありますよ……」
「ほう?何て申し上げましたかな?あの頃はもう必死で…一つ一つのことは覚えていないのです、お恥ずかしいことに」
北教授が話しに入ってくる。教授は柔らかな微笑を浮かべその横に佇んでいる。
「『こんな熱傷患者を平気で見ることが出来るのは……第二次世界大戦の空襲でも体験なさっているのでは?』と仰いました。もちろん、冗談っぽくですが…ね」
「ああ、そうでした。戦場のようなあの修羅場で医者以外の方が平然と手伝って下さるのを見て感心したものでした。震災の時はきっと昔の野戦病院とはこのようなものだったのだろうと思いましたから」
「第二次大戦中の大空襲の時よりかはマシだと思うのですが……」
鈴木さんが真剣な表情で言った。
「そうですね。では、私の部屋に来られませんか?全員が驚かれると思います」
北教授はそう言って、香川教授と祐樹そして鈴木さんを招いた。
救急救命室を後にして、北教授専用の部屋に行く。もうこれ以上の血液のサンプルは必要ないだろうという香川教授の判断で、長岡先生は――途中で血液の入っている容器を割ることがないように阿部師長が厳重に梱包していた――それらを持って、柏木先生のもとに行くことになった。
「阿部師長に任せてはいるが、私はここの責任者だ。だから大学側に要求して……まあ随分と予算はケチられたのだが…。救急救命室の状況だけは知る必要が有った。ちなみに、香川教授がウチの助っ人をしてくれたことも実は、見ていた。その節は有り難かった」
そう言って香川教授に頭を下げる。香川教授も面食らったような顔をしている。それはそうだろう。救急救命室勤務の長い祐樹だってワケが分からない。
「いえ、あの時は、少し理由が有りまして……。北教授がご存知だとは知りませんでした」
香川教授がそう言うと北教授は悪戯を見つけられた子供のように笑った。
北教授は殆ど全てを知っているようだった。北教授の研究室は救急救命室の上階に有った。
「この部屋の存在までは、阿部師長は知っている。しかし、その奥の部屋の存在は、斉藤病院長を始めとして一部の人間しか知らない部屋だ」
阿部師長が知っている部屋・・・…それは、いつか祐樹も聞いた覚えのある北教授の研究室だった。大震災が起こった時に備えて色々なシュミレーションが詳細な地図付きで展開されている。「災害時の医療インフラの設営」などの専門書も所狭しと並べられている。震災が起これば、本棚が倒れて来そうだな…と余計な心配をしてしまった。
「で、その奥が私の秘密の部屋だ」
そう言って、本棚をスライドさせると、別の空間が広がっている。
興味深そうに一番先に覗いた鈴木さんが、「なるほど」と声を上げた。そしてその空間に足を踏み入れる。
香川教授と祐樹もその部屋を見て、驚きの視線を交錯させた。
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