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第十一章 第21話

 こんな部屋が有ったのかと、祐樹は香川教授の顔を見た。彼は仄かに驚いた顔をしている。彼の澄んだ瞳に映る祐樹の顔はあからさまに驚愕の表情をしていた。 「ほほう、これは…セ○ム…の――と言ってもああいう警備会社とは付き合いがないのですが――管理室のようですね」  鈴木さんが感心したように言う。  壁一面には20個の画面がはめ込まれていた。一番端の画面は音を消したテレビ…恐らくはN○Kの番組だろう…放映されていたが、それ以外は全て救急救命室のリアルタイム画像のようだ。先ほどの胃洗浄の患者さんが映っているところから考えて。 「これが私の秘密の部屋だ。実は去年の冬に斉藤病院長の交渉して、書類を山のように書いて正月休みに突貫工事をした」 「なるほど…これがあれば、ここに居ながらにして救急救命室の様子を知ることが出来ますね。しかし、何故この部屋を秘密に?」  香川教授が白い指を顎に当てて思慮深そうに言った。 「私のネゴシエーション下手が祟って、こういう不十分な設備しか入れることが出来なかったからだ。ここの画像は見ることは出来るが、指示は出来ない。しかも私の正規の研究室と同じ空間にしたかったのだが、それも設計上無理だと言われた。  最新の救急救命室の責任者ならモニター越しに指示を与えることも出来る機械を導入して貰っているのだが。先ほど鈴木さんが仰ったように警備会社のモニターのようにただ監視しているだけの中途半端さなので、スタッフにも隠しているのだよ。  阿部師長は良くやってくれているし、彼女に任せておけば安心なのだが……最近は随分と医師に対する風向きが変わって来た。師長がいくら頼りになるからと言っても、彼女はナースの資格しか持っていない。万が一、ここで医療事故が起り、訴訟沙汰になった場合のことを慮ってこういうモニター室を作って貰った。本当は、マイクで指示を飛ばせるようなのを希望したのだが、予算の関係でカットされた」 「失礼ですが……救急救命室は赤字分野と聞いています。それなのに、このモニター室や、どこかに設置してあるカメラなどの予算が下りましたね」  好奇心の赴くまま聞いてしまった。隣で香川教授が制止するような眼差しを向けたが……後の祭りだ。  北教授は怒りもせずに、淡々と事情を説明してくれる。 「あの儲け第一主義の斉藤医学部長兼病院長は、当然予算面では文句は言った。しかし、私にも怪我の功名というか……2つの強みが有った」  香川教授はすらりとした指を顎に絡ませたまま言った。 「先ほどの、鈴木さんがおっしゃっていた『大規模災害の医療体制についての提言』という論文でしょうか?あの未曾有の災害で体験した医療のあり方については、日本だけでなく海外でも高く評価されています。それと『大都市直下型の地震時の医療インフラ構築の一考察』という、一種のマニュアルですが北教授の書かれたものの中では秀逸ですね。おそらくはそのせいかと……。  もう1つは、最近の医療裁判の増加でしょう?」  北教授は流石だなという表情を浮かべた。 「香川教授のような手術だけに全力投球をしている方の前で言うには全く外科医としては恥ずかしい限りなのだが……私は論文数ではこの大学でも指折りで、海外からも評価を――全く香川教授の前で言うには面映いのだが――を若干ながら受けている。大学病院のしきたりについては多分、香川教授より田中先生の方が詳しいだろう?」 「ええ、外科医でも精神科医でも同じ評価です。論文数で評価が定まります…よね」 「外科医は、論文執筆よりも手技を磨く方が大切だとは思うのだが……ただ、私の論文は地震の時だけではなく、他にも応用が効く。何か分かるかね?」  祐樹に話題を振って来た。何となく学生時代の口頭試験を思い出しながら思いついたことを口にする。 「震災では、建物の倒壊で被害者が出たと聞いています。そして熱傷患者も――とすると、最近色々な場所で自爆テロが起っています。同時多発テロが代表格ですが。あれも建物倒壊と熱傷患者さんが多い事故ですよね…」  北教授は我が意を得たりといった表情で祐樹に頷きかけた。 「そうだ、だから私の論文執筆依頼は、アメリカだけでなく…中国…最近はあの国も物騒だからな…などの火種を抱えている国の医学界から引きも切らずだ。そのせいで論文の量は自然と増えてしまい、今やこの大学一の論文執筆依頼件数を誇っている。――私に取っては痛し痒しだが――そのせいで、国際級の救急救命の権威と斉藤医学部長は思っているらしい。それが1つ目の理由だ。  そしてもう1つは、香川教授の指摘通りだ。医療裁判となった場合、責任者不在で、実質はナースが仕切っているというのは……阿部師長がいくら優秀なナースとは言え裁判所にそのような言い訳は通用しない。そのためのアリバイ作りだな。『状況は見ていた。もし、駆けつける必要があれば駆けつけられた』という。裁判に負けるとなると遺族の方への損害賠償も圧し掛かってくるが、それよりもこの大学病院の権威が失墜する。その危惧が斉藤医学部長を動かした。私はこちらからも指示が出来るようにもっと高性能な機械の導入を要求したが、腹黒斉藤医学部長の考えそうなことさ。『形式だけ整えておけばそれで十分。それ以上の予算はビタ一文出さない』という」  ああ、成る程と思った。北教授は祐樹が勤務していたことも香川教授の救急救命室での一回きりの手伝いのことも知っていた。モニターで見ていたのだろう。それにしてもカメラに気付かなかったのは迂闊だったが。 「成る程……で、テレビの画像は、事故や災害を迅速に知るためですか?だからニュースが多い局の番組を?」  教授が白皙の顔を僅かに曇らせて相槌を打つ。 「その通りだ。この局が災害や事故のニュースが一番早いから…な。  ウチでも医療事故の裁判が有っただろう?あれは杉田…と言ったか?あの敏腕弁護士の先生のお陰で助かったが、やはり医療裁判ともなると、患者さんは敬遠する。すると病院経営まで響くというわけだ。それで出来るだけの手を――しかもなるべくお金は掛けないで――というのが腹黒斉藤病院長の意向だ」  イキナリ杉田弁護士の名前が出てきて――しかも今夜杉田弁護士の的確な(?)アドバイスを実践しようとしている――祐樹は顔の筋肉が不自然に動きそうになったが、辛うじて堪えた。教授にその微妙な顔の変化を気取られてないかを横目で窺ったが、幸い彼は自分の考えに沈んでいるようだった。

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