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第十一章 第22話
「そんなわけで、私は救急救命室で何が起こっているのかは論文執筆の合間にいつも見ていた。私が出て行けばもっと上手くやれると思うことも度々だったが・・・…余りタイミングが合いすぎると今度はスタッフに疑われてしまう。何度歯軋りしたことか……私が処置したい、と」
「それは、とてもよく分かります。信頼している、していないではなくもっと別の要因ですよね」
香川教授がいつもよりも深い口調で同意した。祐樹の手の包帯をチラリと見た後で祐樹の瞳を視線が掠めた。その瞬間を逃さずに「分かっています」という視線を飛ばしたが、彼は受け取ってくれただろうか?
「だから、田中先生の処置も度々見ていたし、香川教授の助っ人も見ていた。そして今日のこちらのスタッフで、大腿骨が専門の者は、72時間労働のツケで、現在ステっている」
「ああ、過労と睡眠不足が過ぎた時には、却って眠くならずに放心状態になるという…」
北教授の話が意外過ぎて……つい、教授同士の話に口を挟んでしまった。香川教授はそんなことは気には留めないタイプだが、北教授も同じようなタイプに見えたので。
「ほう……そんな過酷な状況で勤務を?」
信じられないといった口調で鈴木さんが聞く。
「最近は救急救命室がますます忙しくなったのですよ。まぁ、以前から忙しかったのですが……何故だか分かりますか?」
「いえ、分かりません。教えていただけますか?」
「簡単に言えば、医療制度が変わって、従来だと高齢の方はずっと入院されたまま病院で息を引き取るというのが一般的でしたが……今は容態が好転すれば退院です。そして今際の際に救急車でこちらにやってくる……すると、受け入れ先は救急救命です。以前のように事故や急病人だけでなくお年寄りもこちらの窓口になってしまって」
鈴木さんは顔を顰めた。そんな話をしている最中も北教授の視線は全てのモニターにちらちら視線を送っている。恐らく教授は論文執筆の際もそうしてきたのだろう。こちらの部屋にもパソコンと資料用と思しき書類ファイルが散らばっている。
「あれほど先生方が頑張っていらっしゃるのに……もっと業務を増やせなというのが国の方針なのですね」
「田中先生、私の拝見したところでは鈴木さんは大丈夫なようなので、少し内部事情を話してもいいだろうか?」
北教授が一介の研修医ごときに丁寧に聞いてくる。彼もあまり肩書き重視ではないらしい。
いいも何も……鈴木さんには今まで差し障りのない程度で話はしてある。責任者が話すのであればもっと良い。
「国立大学付属の病院が独立行政法人になって……採算の取れる、取れないで一喜一憂し出した。まぁ、だから香川教授のような方も招聘されたので、一概には悪いとは言えない。しかし、経費節減には本当に細かくなってしまって……救急救命室は、土石流のように患者さんがやってくる時も多い。すると現場はパニックだ。誰に点滴をして、シリンジ(注射)をどれだけ打ったのか…そういう書類書きの仕事は後回しにせざるを得ない。助かるかも知れない命と書類書き……どちらが大切かは自明のハズなのだが。
そして、やっと処置が終ったと思うと次の土石流がやってきて…という時もある。そうなったら、誰に何を投薬したのかなど、スタッフの頭からは飛んでしまう。が、物品請求の時にはレセプト(診療報酬明細書)に明記されていなくてはならない。その漏れが有った場合、あの腹黒ケチ斉藤医学部長兼病院長は……事務長のアドバイスも有ってか「漏れの分はペナルティとして支給しない」というお達しが来た。それでも必要なものは必要だ。だから、何を誰にどれだけ使ったのかを抜群の事務処理能力を誇る鈴木さんに手伝っていただければ有り難いです」
斉藤医学部長……祐樹にとっては雲の上どころか天界の人間にしか見えないのだが、北教授はこのモニター室の件や物品請求遅延のペナルティのせいでかなりの恨みがあるらしい。どんどん表現が容赦なくなっていく。
「ウチからは、人材の貸し出しくらいしか出来ないことを申し訳なく思います」
香川教授が優雅に頭を下げた。彼の動きに従って彼の細いが筋肉のついたしなやかな肢体からシトラス系の香りが幽かに鼻腔をくすぐる。
「それだけで十分有り難い。本当にこの大学に帰って来てくれて嬉しい。医学生の頃から手技と度胸など、全て外科医向きだと思っていたが、こんなに早くこのポストに就任してからも傲慢にならずこうして他科のことまで心配してくれて…」
「いえ、医師免許もないのに、救急救命室に出入りを許可されたご恩は忘れません」
「いや、猫の手どころか、座っている親の手も借りたいくらいのウチの内部事情だ。有り難かったよ。ところで、先ほどの救急救命室で気になったのだが……あの長岡先生だけは、こちらに助っ人として寄越さないでくれ」
口調は笑いを含んでいたが、目はおそらく北教授がDOA患者を前にしたらこんな真剣な眼差しを向けるのだろうな……と思われるほど真剣そのものだった。「この到着時心肺停止患者を救う」という眼差しと同種の真剣さを孕んでいた。
香川教授は穏やかそうな薄い唇に微笑を浮かべて言う。
「それはありえません。彼女はウチの優秀な内科医です。外科の知識と経験は大学卒業時がピークでしょう……そういう人間をこちらには差し向けません」
そう言うと、北教授は安心したように肩の力を抜いた。助っ人を差し出す側の方がもちろん立場は上になる。香川教授がもしその気なら――100%有り得ないと祐樹は知っているが――長岡先生を貸し出したとしても北教授は文句を付けることが出来ないのだ。
「あの先生……内科では良い医師だろうが、多分救急救命では途轍もないミスを連発しそうな予感がする。動脈と静脈を間違えたり、人工心肺を空回しさせたり――それも悪気があってのものではないと思うのだが悪気がない分タチが悪いような気がする。ミスのスパイラルに突入しそうだ。とにかく今日の柏木先生や田中先生は大歓迎だが…」
言外の意味を察して香川教授は柔らかな眼差しで微笑む。
「ええ、柏木も多分今日の件は勉強になったでしょうし、彼がその気ならこちらに…田中先生は、日にち指定だけを守って下さるならどうかそちらでもご鞭撻の程を」
「日にち」と言った教授の視線がすっとこちらに流れる。本人は無意識なのだろうが、見詰められると背筋に電流が走るほど色っぽい迫力のある瞳だった。
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