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第十一章 第23話

「ああ、それは勿論だ。田中先生も救急医療ではなく、心臓外科を専門にしていく積りなのだろう?」  香川教授と祐樹の視線の交錯には気付かなかったようだ。北教授の視線はずらりと並んだモニターの方を見ていたので。 「ええ、そうです。救急救命も興味がありますし、微力ながらお手伝いをさせて戴きたくは思いますが……やはり、香川教授から心臓外科手術の手技を学びたいので」  北教授と祐樹の会話を呼吸さえ忘れたかのように聞いていた教授は、その一言で微かな、しかし安心した微笑を祐樹に向けた。その瞳の輝きは見ているこちらが幻惑されるほどの眩しさだった。流石に香川教授は北教授と鈴木さんの視線の先を確認してから祐樹に顔を向けていたが。  佐々木前教授の元で心臓外科医を目指していた頃は、どちらかと言えばキャリアを積む修行の場所として祐樹の一番向いてそうな心臓外科を志しただけで……他で出世出来るならそちらへ行こうかとも思ったこともあった。  しかし、香川教授の手術への拘りと熱意や神業のような手技に圧倒されて、純粋に手術そのものへの興味へとシフトしている。これも香川教授の薫陶の賜物だ。 「専門を定めるのは悪いことではない。それに大学病院でそれなりの発言力を持つのは論文の数だった、かつてはだが。だが、今はそれよりも収益性を重んじる風潮になっている。田中先生の手技を直接見たのは今日が初めてだが……モノになりそうだ。しっかりと学んで一人前の医師になりなさい」 「はい、有り難うございます。香川外科でしっかりと修行を積みたいと思っています」  救急救命医として名高い北教授の望外な評価に大きな喜びと少しの恐縮が混ざる。  「色々と勉強になりました。有り難うございます。北教授のお役に立てる検査結果が出ていれば良いのですが」  鈴木さんが使命に燃える切実な瞳をして言う。 「鈴木さんは、あくまでも患者さんなので……ご自分の体調重視ですよ。  ただ、今日の様子を拝見したところこちらに来て戴いても大丈夫そうですが…」 「はい。別に心臓が苦しくなったりはしませんでしたので大丈夫かと思われます」  その会話に黙って笑みを浮かべていた香川教授が真剣な眼差しで北教授を見た。 「少し、ご相談があるのですがお時間、宜しいでしょうか?」 「私は構わないが……。どうせ論文を書くか、モニタリングをしているだけの毎日だ。暇といえば暇な毎日だよ。もっとも気の休まる暇はないがね。ただ、香川教授に相談されるような心当たりは全くないが」  そう言って救急救命医らしからぬ穏やかな笑みを見せる。香川教授の怜悧な眼差しは真剣な表情をたたえている。 「いえ、先ほどのお話をお伺いして、是非とも北教授にご教示願いたい件がありまして。  ゆ、田中先生、鈴木さんを病室にお連れした後に、柏木先生の検査結果が出ているはずなので、それを持って私の部屋か、もし不在ならば、ここに報告をお願いする」  教授は祐樹も部屋から出したいらしい。そんなに重要な相談事なら少しでも関わりたかったので少し不満だったが、こんな公式な場所で私的な感情を出してはいけないことぐらいは分かっている。 「分かりました。では鈴木さんを病室まで送ってから柏木先生から検査結果を聞いてこちらか教授室に参ります」  チラリと恨みがましい感情を視線に込めて祐樹は香川教授の命令を復唱する。教授は刹那、祐樹に柔らかな光を宿す瞳を当てる。それから北教授の方を向いた。 「失礼します」  そう部屋の主である北教授に声を掛けると、敏捷な身のこなしで彼はこちらを向いた。 「この部屋の存在を知っているのは、今のところこの三人だけだ。救急救命のスタッフにも他言無用でお願いする」 「分かりました。絶対に申しません」  鈴木さんも隣で真剣な表情で頷いた。香川教授がしなやかな足取りで祐樹の傍に歩み寄って来る。  祐樹を部屋の隅に連れて行き、白衣のポケットからこっそりと何かを取り出して祐樹に手渡す。手の中の物を見て、彼の用意周到さに今更ながら舌を巻く思いだった。  針に防護のためのゴムを巻いた一本のシリンジ…これは長岡先生お手製の――彼女は内科医としては超一流だ。祐樹とて、あれほど効くとは思っても居なかった強心剤の一番強力な薬液がその中には入っていた。そういえば祐樹が患者さんに注射しようとした時に香川教授は二番目に効果のあるシリンジと替えていたな……と思い出す。  彼は多分、祐樹と鈴木さんが2人で居る時に彼が発作を起こすのを心配したのだろう。この薬液なら注射一本で劇的に効果が現れる。場所は病院の中……しかもスタッフ用の通路を使えば、鈴木さんの病室に帰るまでにニトログリセリン(これも強心剤だ)は手に入るので、鈴木さんの発作が万一起ったとしても命には別状ない。  そこまで見越していたのか……と。 「有り難うございます。万が一の時はこれで対処します」  感謝の気持ちを視線と言葉の両方に込めて言うと、彼はふんわりと微笑んだ。先ほど、北教授に相談がある……と言った時とはがらりと印象が変わる。祐樹も微笑み返した。  それだけで、何だか幸せな気分になる。  鈴木さんを病棟に帰した後――幸いなことに発作は起らなかった――医局を覗く。柏木先生がもう検査を終えてデスクに居るのではと思ったので。  しかし、午後遅くの医局はがらんとしていた。そういえば携帯電話のチェックをしていなかったな……と祐樹のロッカーから携帯を取り出した。  着信履歴が一件。また公衆電話からだった。こうも重なると不審さが募る。が、公衆電話では相手が誰かも分からない。祐樹に心当たりがあるのは田舎の市民病院に入院している母だけだったのだが。それに滅多に母からは掛かって来ない。いつも祐樹の方から連絡を入れている。勤務時間が終ってから母に電話してみようと思いながら医局を出て、柏木先生が使っている合同研究室に向かった。

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