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第十一章 第24話
柏木先生が使っていると予測していた合同研究室にやはり彼はいた。ただ、試験管を使って何かの溶液を混ぜている途中だった。こういう時に迂闊に声は掛けられない。驚いて手元が狂ってしまい、試験管を割ってしまうなどの事故が懸念されるし、検査結果の精度も下がる可能性もあるからだ。彼も集中しているのか、祐樹が入室してきたことに気付かない様子だった。
祐樹は大学病院のヒエラルキーでは下から数える方が断然早い……つまりは最下層に近いという自らのポジションは自覚していた。つまりは皆の都合に合わせる立場だ。
この場合は柏木先生が気付くまではここで待っているしかないと思って、そっとドアを閉め、そのドアに寄りかかって待つ。柏木先生を驚かせないように静かに立って彼が試験管や何かの水溶液――薬剤か検査用の溶液だろう――を鮮やかな手つきで扱っているのを見るともなく見ていた。
それにしても、公衆電話の着信が気にかかる。母だろうか?それしか心当たりがない。
杉田弁護士が、「予定が早まった」と電話してくる可能性も無いわけではないが、その場合は彼の事務所の固定電話か、携帯電話からだろう。その二つは番号を登録済みだ。携帯電話を持ち歩いている人間が公衆電話から掛けるような事態――バッテリーが切れかけ――ということも考えられないことはないが、普通は携帯電話持ちの人間は携帯電話を使うだろう。
母の容態に変化があったのでは?とも思うが、それならば1人息子で、今となってはたった1人の家族となった祐樹に――勿論、勤務先の電話番号と自宅と携帯の番号は母が入院している市民病院にはしっかりと書き残してきたので――病院から連絡が入るだろう。
だとすれば、母は何か祐樹に伝えたいことでも有るのか?と思うが、祐樹に頼りきりの人ではない。2回も着信を残すのは母にしては珍しいので。やはり別の人間かとも思う。
それと香川教授は祐樹を遠ざけても北教授に相談したいという件は何だろうとフト気になる。彼のポジションゆえの悩みなら祐樹は聞くことは出来ても的確なアドバイスは出来ないだろう……そういったものかな?と思うが、いささか残念でもある。
そんなこんなを考えていると首をストレッチのように回して柏木先生が小さく「出来た」と呟いている。
「お疲れ様です。それは鈴木さんの検査ですよね?」
「お疲れ様。居たのか……全く気付かなかった」
こういう人種は周りには多い。自分の研究なり手術なりに没頭すると他の一切の出来事が知覚されない人間だ。
「もちろんそうだ。結果を聞きたいだろうな?」
「もちろんです。香川教授も知りたがっておられましたし」
「口頭では直ぐ言える。レポート作成10分も掛からない」
報告書が10分で出来る? それを聞いて驚いたが彼の言葉を聞いて納得した。
「全く血中濃度に変化なしだ。骨折患者さんの処置を――田中先生はメインで治療に当たっていたから多分鈴木さんの方は見ていなかっただろうが、俺はちらちらと見る機会は有ったので……心配になって見ていたが、しっかりと彼は患部を見ていた、目を逸らすこともなく冷静に。その後、長岡先生から聞いたが、今度は睡眠薬の服毒自殺――まぁ、最近の睡眠薬は多量に飲んでも死亡するケースは稀だが――の胃洗浄があったらしい。その時の血液を長岡先生がジツに危なっかしく運んで来てくれたが――そちらの方も全く変化なしだ。つまりはストレスを全く感じていないということだろうな…」
血液は震災の時に見てきたと推測されるが、胃液の独特な臭いには閉口する医師も居るというのに、鈴木さんはそれも平気だったということなのか……と思った。が、あの大震災の時に被害が一番甚大だった場所で医療ボランティアをした経験のある鈴木さんなら、修羅場をかいくぐって来たのだろうからそれも当然かもしれないな…と思う。
「検査結果の報告書、香川教授にお持ちしますので作成お願いします。先ほどは助けて頂いて有り難うございました」
そう言って頭を下げる。何しろ、柏木先生はれっきとした医師だ、研修医の祐樹と違って。それなのに、自然と助手の立場を買って出てくれたのだから。
「いや、あれはあれでいい経験になった……。俺達は――まあ、田中先生は救急救命室に助っ人に行っているからそうでもないかもだが――お綺麗な手術室で一件だけの手術をこなせばいいのだが、あそこは違うのだな。いい勉強になったよ」
充足感溢れる顔をした柏木先生に控えめに言う。
「あの後、北教授のお部屋に行ってお話を伺ったのですが、『柏木先生にも是非助っ人をお願いしたい』と仰っていましたよ…」
「ほう…では手技は認めて下さったのか…どうせ、家で待っている人間がいるわけもない独り者だから、香川教授の手術に差し障りが出ない程度には手伝うのも俺のスキルアップになるな…『香川教授の許可が下りれば喜んで』と答えてくれ」
柏木先生はふと真面目な顔をした。
「香川教授とは学部生の時からの付き合いで、親しくしていたつもりだ。あいつは、頭脳と手技と度胸という外科医にとっては必須のモノを持っていたが……人付き合いに関してはどちらかというと淡々としていた。
天才にありがちな才能の偏りかもしれないが……、それなのに、田中先生だけには妙に固執しているな……。あいつは何でもソツなくこなすが、実は不器用な人間なんじゃないかと思っている。今回の手術で田中先生が怪我をした時の動揺ははっきり言って驚愕ものだった……何となく人間味が出て来たというか……。まぁ、イイ奴なんで、これからも補佐をしてやってくれ」
ポジション第一主義の大学病院で、かつては同級生だった柏木先生も今となっては香川教授に友達付き合いは出来ないのだろう。真の関係は多分察していないと思うが、友達を案じる気持ちが溢れていた。
「分かりました。私に出来ることがあれば何でもしますので」
「で、あの手渡した文書は?」
もうすっかり腹を括っているらしく平静な声で聞いてくる。反香川教授の名前を挙げた文書のことだろう。
「あれは……私がお渡しするのを控えています。こちらでも色々調査を」
「そうか……」
そんな会話を交わしながら柏木先生は簡単な数値を入れた報告書を作り、祐樹に手渡した。礼を言って受け取り、香川教授の執務室に行く。例の秘書が笑顔で教えてくれた。
「教授は一度戻られましたが、書類を持って、北教授の部屋――田中先生ならそれだけで分かるはずだ――と仰って、そちらに行かれました」
救急救命室を突っ切り、北教授の秘密の部屋に通じる本棚をノックする。許可の声がしたので入ってみると、教授の後姿が見えた。その姿にドキリとする。
絶対、今夜逢いたいと渇望に似た気持ちが込み上げた。
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