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第十二章 第1話

 北教授は祐樹に入室の許可を与えただけで、祐樹が入室してもちらりと祐樹を一瞥した後、香川教授に一生懸命話をしている。  香川教授は部屋に入って来た祐樹に柔らかな微笑を浮かべた。祐樹が微笑み返すと、ちらりと祐樹の右手の包帯を心配そうに見やってから北教授に向かって真剣に話している。  北教授は自分の執務机に座り、香川教授は机の前に立って、机に視線を合わせるためか長い脚を持て余すように立ち、腰を折って話に熱中している。どうやら文書の添削を受けているらしい。香川教授が書類に何かを書き込んでいる。  香川教授の執務室なら、このような相談(だろう……多分)は、教授が座っている椅子の横に立ってするに違いない。が、北教授は震災が起った時の対策シュミレーションの専門家だと聞いているが――事実そうに違いないのだろうが――自分の執務室に居た時に地震が起れば山積みにされた書類や、重い本が沢山入っている本棚が倒れてきて真っ先に圧死しそうなのはいかがかと思う。  北教授の椅子の回りには専門書と思しき分厚い本が地層となって堆積している。だから香川教授も傍には行けず、机越しに話しているようだ。 ――あの書類や専門書の山を越えて北教授はどうやって自分の椅子に座るんだろう?――そんな素朴な疑問が湧いてくる。  それよりもよりいっそう気になるものが有る。香川教授の細いがバランスの良い身体が祐樹の目には無防備に晒されている。――もちろん彼にはそんな気持ちはないだろうが――。その後姿に祐樹の目が釘付けになる。彼は、いつもはキチンとプレスされた白衣をスーツの上から着ていたのだが。――手術の時に術着に着替える時は別で――。  今日の白衣は少しプレスが取れかかっているので身体の線が露わになっている。――そういえば、手術の時の予期しない祐樹の怪我、そしてその後の救急救命室のシャワールームでの祐樹への手当てなどで白衣は朝に来たままの状態なのかもしれない。  そしてジャケットも脱いでシャツの上に白衣を羽織っている。そんな格好で上体を倒して後ろ向きになっていたのだからたまらない。幾分細めの長く形の良い脚から小ぶりで肉付きの薄いものの魅力的で絶妙な形をした臀部……。そしてその上にはベルトで締められた絶妙なウエストラインがあった。ウエストは男性としては細いものの、女性のように円柱ではないのが堪らなくそそられる。全てが白衣に包まれているのが惜しまれるが、それゆえに想像力がかきたてられる構図だった。彼の何も纏っていない姿は知っていたが、こんな無防備に晒された背中のラインを見たのは初めてだった。  教授同士の会話に口など挟む権限もない祐樹は聞くともなく2人の会話を聞いていた。芸術的な背中のラインを観賞しながら。  香川教授の持ち込んだ書類に対して、北教授が「ここはこう直した方が良い」だの「この表現はマズい」だの答えている。その都度、香川教授はその箇所に付箋を付けたり、プリントアウトしたと思しき書類に書き込みをしたりしている。そういえば、香川教授の秘書は「書類を持ってもう一度、北教授の所へ」と言っていなかったか?  論文などで教授同士が語り合うのは皆無とは言わないが、二人は専門分野が全く違う。 外科という括りでは同じだろうが……それなのに、北教授の意見を参考にしているあの書類は一体何だろう?と思う。  しかし、手掛かりとなるようなものはなく、香川教授と北教授の話は終った。 「参考になりました。有り難うございます。アドバイスを元にもう一度書き直してみます」 「いやいや、私の経験が役に立って嬉しいよ。何と言っても書類に不備があれば、何回だって書き直しを要求されるというのは経験済みだ」  何の話かは全く分からなかったが、とにかく話は一段落がついたようだった。北教授の机に広げられていた書類は香川教授の几帳面な手つきで片付けられて左上をクリップで留められている。やはり香川教授の持ち込んだ書類のようだった。そうした一連の作業が終わった後で北教授は祐樹の方に向き直って声を掛けてきた。 「鈴木さんの検査結果はどうだった?」  平静な顔をしているのは、彼ほどのキャリアを持つ医師だと聞かなくても分かるというところだろう。香川教授は祐樹を視線で促した。 「全て通常と変わりがありませんでした。こちらが血中濃度の具体的な数字です」  そう言って、香川教授に柏木先生が作成した報告書を手渡した。彼はそれを一瞥して北教授に渡す。 「ほほう、予想通りだな。全くストレスを感じていないとは流石と言うべきか」 「そうですね。私もこれほどまでとは思いませんでした。病院のベッドで安静にしている時と変化がないのは流石です。これなら救急救命室でのボランティアも大丈夫でしょう……」 「ああ、その通りだな……万が一、発作が起っても阿部士長以下優秀なスタッフがいるのでその点も問題はない。こちらのほうでも大歓迎だ。一応はあの腹黒病院長に報告書は提出したほうが無難だが」 「その稟議書はこちらに」  そう言って香川教授は先ほどとは別の書類の束を取り出した。とすると、北教授にアドバイスを仰いでいたのは別件ということになる。  救急救命医らしく素早く書類をチェックし終えた北教授は笑顔で言う。 「こちらはこの書類で大丈夫だろう。先ほどの書類と違って学内で処理されるべき問題だから、そんなに厳しくチェックはされない……」  となると、先ほどの書類は学内では処理出来ない問題なのかと思う。 「では、鈴木さんは可及的速やかにボランティアに参加して貰うという方向で……」 「お手数をお掛けするが、恩に着る。色々ウチのことを心配してくれて有り難いよ」 「いえ、病院経営という視点からは救急救命室が厳しいですが、病院には……いえ社会には必要不可欠なものですから」  香川教授はキッパリと言い切った。  その後、2人して救急救命室を後にする。 「北教授に何をご相談なさっていたのですか?」  答えを期待せずに聞くと彼は少し唇を綻ばせて言った。 「その内分かる……許可が出るまでは何も言えないが……。私は午後はこの書類を直すだけで定時に仕事は終る」 「私もです。鈴木さんと話してから病院から帰れます」 「では、いつもの場所で……待っている」  瞳を心持ち伏せて低い声で言う彼の声が妙にセクシーだ。 「分かりました」 「ああ。待っているから」

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