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第十二章 第2話
鈴木さんの病室に寄って、検査結果を伝えた。彼の顔が満面の笑みを浮かべるのを見て(提案して良かったな)としみじみ思う。
「では、お手伝いは何時から行けばいいのですか?」
――十分予期出来た質問だったのに……それを聞き逃してしまった――。
香川教授の無防備な後姿を見たせいで、きっと脳のスイッチが切り替わってしまったのだと心の底から反省する。
「それは……救急救命室の責任者の北教授だけでは決められないことなので……もう少しお待ちください」
苦し紛れの返答をする。救急救命室は北教授と阿部師長の采配だけで全てが回ってしまうこの病院では「聖域」だった。北教授の許可があれば、明日からでも可能だろう。
「やはり、旧国立大学付属病院は違いますね。お役所仕事がまだ根付いているのですか?」
鈴木さんは会社経営者らしい穿った物の見方をしてくれたので助かったが。また、鈴木さんの言う通り、書類を書かなければ通らないことも沢山あるのは事実だ。
そう言えば、北教授の秘密のモニター室……あそこを作るのには山のように書類を書かされたと仰っていたような……。そして、香川教授も先ほど、北教授に沢山の書類の添削を仰いでいた。何か共通点でもあるのだろうか?とフト思った。
「そうですね。何か新しいことを始めるには上司に書類で提出する暗黙の決まりがありますので……北教授には『いつから鈴木さんを派遣していいのか?』と伺っておきます」
「宜しくお願い致します。あの現場を拝見して、私の力で少しでもお手伝い出来るのであれば望外の喜びです」
そんなことを話す鈴木さんは、内田先生や祐樹に向かって「手術はしないで下さい」と嘆願していた弱々しさの片鱗も伺わせない。
やはり患者さんだって、「自分が必要とされている」という充足感からこんなにも明るい表情が出来るのだな…と思った。「QOL」――生活の質――を落とさない治療方法は、スタッフに迷惑を掛けない限りという前提はあるが、ホスピスなどのターミナルケア――終末期医療――だけが重視すべき問題ではないような気がした。
来年からは祐樹も一人前の医師になる。この大学病院に何としても残る積りだが――上司が香川教授で有るかぎり――そうなれば研究テーマを決めないと在籍は出来ない。鈴木さんのケースを参考にして研究テーマにしようかと思ったのだが……それでは香川外科の在籍しなくても出来るテーマだと思い返した。
まぁ、まだまだ時間に余裕があるのでその時に考えようと思った。
鈴木さんと別れて、救急救命室のスタッフ入り口のところにそっと立って、室内の様子を窺った。患者さんが雪崩れのように来院しているのであれば、まさに祐樹は「飛んで火にいる夏の虫」状態となる。阿部師長には色々弱みを握られているので彼女に「手伝って」と言われれば「承諾」以外に祐樹の取ることの出来る選択肢は存在しない。
もっけの幸いか、部屋の中からは走り回るスタッフの靴音も、医師の薬品などを要求する怒鳴り声は聞こえて来ない。そっと扉を開けると、阿部師長は所在無げに立っていた。祐樹を見て、いい暇つぶしとばかりに寄って来た。顔には、にまにまっとした意味ありげな笑顔を浮かべている。
「今日の助っ人、とっても助かったわ。有り難う。右手の怪我……大丈夫なの?」
口調はしおらしそうだが、笑顔はそのままだ。
「お気遣い有り難うございます。ただ本来は包帯も必要としないくらいの怪我なのですよ」
「そんなこと分かっているわよ。だっていつもと同じ手技をしてたじゃない?怪我をしている人間は無意識に手を庇うものだわよ」
流石に救急医療室の女神様の眼力は伊達ではない。怪我の件でナースを遠ざけてくれて、香川教授とシャワーブースで2人きりにしてくれたのは彼女の咄嗟の機転のようだった。
「おみそれしました。それで北教授は?」
「いつものようにお籠もり中。用件は、鈴木さんのこと?」
「そうです。いつからこちらに伺えばよいのかを聞こうと思いまして……」
「ああ、それなら私も聞いているわ。明日からでも良かったら……。でも心臓の方は大丈夫なの?負担にならない?」
「負担にはならないと予測されます。彼はどんな怪我でも心臓にストレスが掛かることはなさそうです。万が一、発作が起っても、阿部師長がいらっしゃれば安心ですし。あ、この強心剤お渡ししておきますね」
長岡先生のスペシャルアンプルを白衣のポケットから取り出した。
「ああ、あの強心剤ね。あれには驚いた。長岡先生は、修羅場には弱そうだけど……、才能のある内科医だってことが良く分かったわ。さすがに香川教授のお眼鏡に適った先生だけのことはあるわね」
シリンジを大切そうに受け取りながらの素直な賞賛につい笑ってしまった。
「北教授も絶賛されていましたが……、ただ、こちらには手伝いに寄越すなと」
「そうでしょうね。職務に熱心なのは認めるけど、戦場では使えない人間と見た。私だってあんな危なっかしい先生は怖くて見ていられないもの」
長岡先生の救急救命室での評価は低いらしい。まぁ、それが妥当だろうが。
「では、明日からということで……、朝の食事が終わってからで良いですか?
あ、柏木先生もこちらにお手伝いに来ることになりましたよ」
「『夕食時間には病室へ帰って頂きますので、昼食は病院食をこちらで用意しますからお待ちしています』と鈴木さんに伝えて頂戴ね。柏木先生……あの先生なら大歓迎だわ。こちらも深刻な人手不足だから」
「分かりました。そのように伝えます」
にまにま笑いがいっそう深くなる。
「そちらは上手くいっているようじゃない?」
「ええ、まぁそこそこには…」
第三者である阿部師長が見てそう思うのなら確かなことだと思う。新しく患者さんが運ばれて来る前に救急救命室から退散した。掴まってしまえば、今夜の逢瀬もままならなくなる。鈴木さんにその旨を伝えてから定時に病院を後にする。
病院のスタッフ専用門を出て、細い道でふと不審を感じた。祐樹の後ろから黒いセドリックが徐行運転している。最初は自転車か何かを避けてそのスピードなのかと思ったのだが。どうやら違うようだった。祐樹の歩く早さでの運転。ナンバーを覚え、ついでに車内を覗き込むが、普通のガラスに何かで加工してあるのだろう。中の様子は全く見えない。
タクシーに乗り込んでみた。すると、黒い車も数台後ろにぴったりと付いてくる。ナンバープレートからしてレンタカーではないだろう。祐樹の乏しい知識ではレンタカーは「わ」で始まると何かで読んだ覚えがある。
あの車は一体?
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