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第十三章 第15話
彼の経歴ページを画面上だけで見るのは勿体ないような気がしてプリントアウトする。
その紙すら何となく貴重なものに思えて…煙草の火を消して、姿勢を正してからじっと見詰めた。
「香川聡 父; 故人 母; 故人 特記事項 なし」
祐樹の場合は死亡となっていたが。入力した人間が違うのか、それとも彼の社会的地位に慮ったのかは分からない。ただ、彼の経歴欄の華々しさに比べて家族の欄はとても物寂しい記載だった。彼からも家族はいないと聞いていたが、こうして紙に印刷されたものを見れば、その寂寥感がひとしお心に沁み込んでくる。
彼はずっと孤独の中に居たのだなと思う。
学生時代は……家族の不在で。心の底から頼れる人も居なかったのだろう。しかもこの大学の医学部はある意味特別というか、殆どが恵まれた家庭の生まれだった。
祐樹もそうだったが、同級生のほとんどは入学祝いに親から車を買い与えられている同級生も多かった。それも外車が当たり前のようだった。下宿にしても普通なら学生用のワンルームマンションが妥当な線だと思うのだが、この街では学生の数が圧倒的に多い。祐樹なども、下宿を探す時にはワンルームが全部塞がっていたので、仕方なくここに決めたものだったのだが。それでも母には悪いことをしたと思っていた。経済的に裕福でないことは重々承知の上だったから。
だが、同級生の中にはファミリータイプのマンションに当たり前のように住んでいる友達もかなりの数に上った。それも豪華マンションと呼ばれる部類のマンションだ。祐樹の実家からは絶対に通えないので下宿に決めたが、通学時間が一時間くらいなのに「解剖実習などが入ると帰れなくなるから」という理由でマンションを買って貰った…という同級生は枚挙に暇がない。まぁ、そういう同級生は屈託がなく話していても面白いし祐樹としても普通に接していたが。
それなりの給料――と言っても、世間の人が考えるよりは安いだろう――を貰える今となっては、彼と過ごすホテル代を三回に一度くらいだが払える身分になっていた。が、同級生達は事も無げに「入試の三日前からは、京都で一番宿泊代金の高いシティホテルのスイートに泊まった。ああいうホテルでないと落ち着いて眠れないから」などと言っていたなと思い出す。別に羨ましいとは思わなかったが。そういう友人たちともそれなりに屈託なく付き合ってきた祐樹だが。
香川教授の性格から考えて、学生時代もそんな恵まれたグループには加わらずひたすら勉強と手技の向上を目指して「救急救命室」に入り浸っていたのではないだろうか……と、ほぼ確信めいて予想した。
彼の経歴を穴が開くほど凝視する。聞いていた通りの経歴だった。卒業してアメリカの病院勤務、その後向こうの大学院博士課程取得、そして祐樹の母校の教授へと。
帰国後は、地位の孤高さで……彼の孤独は多分癒されなかっただろう。何せ、教授職は祐樹の年代からすると父親の年代の人間がほとんどだ。その中での教授会からの嫌がらせめいた吊るし上げも有ったことだし。同年代の柏木先生なども、大学時代は気心の知れた友人だったかもしれないが、彼が教授職となって帰国して以来一線を画している様子だ。
だからなのか?祐樹の部屋に不安だからと言いに来たのは?祐樹ならば信頼出来ると思ってくれたのだろうか?そう思うと胸がじんわりと熱くなる。
携帯電話の着信音に我に返った。香川教授ではないか?と咄嗟に思うが、彼は滅多に電話を掛けてくるタイプではない。香川教授が電話の主なら相当用心して話さないとマズいと思い――もちろん盗聴器対策だ――恐る恐るディスプレイを見た。
ディスプレイには「公衆電話」とあった。一連の騒ぎの中でついつい後回しにしていた携帯の着信履歴の「公衆電話」の主か……と、通話ボタンを押した。
「あ、祐樹、私です」
一番可能性が高いと踏んでいた母が公衆電話の主だったのかと改めて思う。
「ああ、母さんか。もしかして何回か電話してくれた?」
母との会話ならこちらが用心すれば盗聴されていても問題のない会話が出来るだろう。
「祐樹も忙しいのは分かっているからねぇ、余り電話はしたくなかったのだけれど、相談したいことがあってね……昼間に5回ほど掛けました。掴まらないので、今は皆が寝静まったのを見計らってこっそり電話しました」
「相談」……まさか、入院しているM市民病院勤務の綺麗で性格の良いナースとの縁談を勝手に進めたとか。お話が相手のご両親にまで伝わったので彼らが興信所を付けたのではないだろうな……と危惧した。もし、そうなら彼には無用の心配を掛けたことになるし、それに今日、杉田弁護士事務所にわざわざ変装までして行った行為が全くの徒労となる。
五回……確かに着信履歴に残っていたのはそのぐらいの回数だったなと思う。
「相談って、何?」
少し声が尖る。
「今、話しをしていていいのかい?勤務時間だったら切ります」
「いや、勤務時間じゃないので、大丈夫。それと母さん、見舞いにも行けなくて申し訳ない」
「そんなの祐樹の気にすることじゃないよ。お母さんは祐樹が立派なお医者様になってくれたらそれでいいんだから。で、相談というのはね……」
口調が躊躇いの色を帯び、口ごもった。
「まさか、縁談じゃないでしょうね?それなら御断りです。今好きな人がいるから。まだ片思いだけど……」
「縁談?そんな話しじゃないよ。それに祐樹が結婚するのは勝手だろうけど、お母さんは祐樹を人のお嬢さんに紹介は出来ないよ。それだと詐欺になってしまう」
母が知り合いのお嬢さんに紹介出来ない……詐欺……それを聞いて背筋に汗が伝った。
――まさか…知っている?自分の性癖を――。
怖くて聞けなかった。が、そのテの雑誌を実家に居た時から買っていたのは事実だ。慎重に隠していたつもりだったが、見つけられていたのだろうか?
「そ、その話しはいいです。で、相談というのは」
いささか早口で遮る。そして気分を落ち着かせるために煙草に火を点けた。
「それがねぇ、院長先生が直々に私の病室までいらっしゃって、『この部屋は狭いので、個室に移りませんか?』と満面の笑顔で仰るんだよ。それで『そんな贅沢は出来ない身の上なので』と断ったら、『部屋代は必要ない』って仰って。おかしな話だろう?差額ベッド料金が要らないなんて……それで懇意にしている婦長さんにこっそり聞いたら、小さな声で教えて呉れた」
母の次の言葉を聞いて、驚きの余り煙草が手から落ちた。落ちていく煙草は、普段の祐樹の反射神経と動体視力ならば床に落ちるまでに拾えたのだが。今度ばかりは拾えなかった。
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