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第十三章 第17話
寝る用意を全て整え、ベッドに入った。いつもなら――情事の後はともかく――布団に横たわると直ぐに眠ってしまう祐樹も今夜ばかりは色々と考え込んでしまう。
山本センセ達のことは教授や黒木准教授の権限に移ってしまっているので、祐樹が口を挟むべき筋合いはない。
もちろん、杉田弁護士から手渡された証拠書類は別れ際に上司である教授に手渡してある。
教授の別れ際の悲しみを湛え、いつもよりも透明で消えて行きそうなくらい澄んだ瞳や彼の顔が脳裏にちらついてしまう。やはり杉田弁護士のアドバイス通り全てを話してしまった方が良かったのではないかとも、チラっと思ったが彼にこれ以上の重荷を背負わせるわけには行かない。
それに驚天動地の母の話し。あれは絶対に祐樹のために彼は動こうとしてくれているのだろうと思う。そうでなければつじつまが合わないことが多すぎる。だが、この件を確かめるのは彼に潔く告白して――そうなることを心から願うが――イエスの返事を貰ってからにしようと思う。そうでないと、彼は本当のことを言ってくれないかもしれない。彼は基本的に嘘は吐かない人間だとは分かっているが。嘘・本当の問題ではなくけじめの問題だと思う。告白する前ならタテマエを語られる可能性もある、ホンネではなく。それも祐樹が負担に思わないようにしようという彼の切ない心遣いから。
やはり、彼は祐樹のことを……そう思うと大変嬉しい。嬉しいが今までの自分達は――特に最初のそういう行為の時――最初は合意の上だったが、その後彼には酷いことをした。それに今までホテルで逢う度に彼の羞恥心を煽ったり、恥ずかしい行為ばかりを選んだりした記憶が苦い薬を飲んだ後のような感じを祐樹に与える。
もう少し、優しく振舞えばよかった……そう思っても6日の桃、10日の菊だ。
逢瀬の時も彼の肢体やその内部、そして顔を褒めていただけで、肝心の言葉はまだ言っていないことにも気付く。その時は、彼の気持ちが分からなかったということもあるが。
今度こそ言おうと今夜になって何度目か分からない決心をした。3日、いやもう2日後か。杉田弁護士が、独自のルートで興信所の動きを止めてくれるだろうから。彼はゲイバー「グレイス」で会う時とは違っていかにも敏腕弁護士といった風情だった。
――時々は、特に教授の彼の新たな魅力を見せ付けられていた時は、脱線していたが――といっても、祐樹も全く同じ気持ちだったので同じ性癖を持つ者としては無理もない話しだと思っていた。ノーマルな男性が女性の肌の露出した服を着ていれば男性としてはついついそちらに目を遣ってしまうのと同じ心理だと思う。一旦思考が途切れた。
彼がだだっ広いフローリングの床に座ったまま声もなく涙を流している、カーテンも引いていない大きなベランダに続くガラス張りの扉からは青白い月の光が入ってきて、その涙を蒼く染めている。近付こうとすればするほど、彼の月明かりで蒼く見える姿はどんどん遠ざかる。
「待って下さい!行かないで!」
叫んだ声で目が覚めた。どうやら夢だったらしい。五月だというのに汗びっしょりだった。簡単にシャワーを浴び、先ほどの夢に出て来たのと同じ月を窓越しに眺めた。
「悪い夢を見ないでゆっくり休んで下さいね」
月に向かってあたかも彼がそこにいるように愛しげに呟いた。このくらいの独語では盗聴者がいたとしても何を意味するかは分からないだろう。寝言であれ以上のことを口走っていなければいいなと思うが、その点はあまり自信はない。過去夜を共にした男女問わず少数の人間は――何しろ行為が終ってから帰ったり、帰らしたりした人間が圧倒的多数だったので――祐樹が「寝言を言っていた」と報告してくれた人は居ない。イビキと違って寝言を言ったことを告げてもマナー違反にはならないだろうから、祐樹は多分寝言を言わないタイプなどだと願望を込めて強引に結論付けた。
祐樹がこの部屋に帰ってこられるのは、救急救命室勤務のない時だった。彼がこの部屋で寝起きするようになってからは……彼の方がこのベッドを使った日の方が多いだろう。彼も綺麗好きだし洗濯はまめにしているようだが、今日の夕方、彼に有無を言わせずに帰したので、寝具を換えたり洗ったりする時間がなかったのだろう。その前の日はホテルだったし。
もう一度、毛布にくるまると仄かな彼の香りがした。
その香りのせいで空虚感はよりいっそう高まる。彼が横に居ないという不在の重さを噛み締める。今日は五月の標準的気候だ。昼間、教授が院生だか学生だかの服を着て――あの姿は眩暈がするほど良く似合っていたが――現れた時も半そでだった。夜になっても気温はそんなに下がっていないのに、彼が居ないだけで寒さを感じる、肉体的にも精神的にも。
彼がこの部屋に来てから冷蔵庫の中身は目に見えて増えている。その中に牛乳があったことを思い出し、マグカップに注ぐと電子レンジに入れた。その間に机の上に放りっぱなしにしていた山本センセの経歴を女子高生が毛虫を見るような目で見た。
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