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第十四章 第16話
「論理破綻と言うよりは、『事実の誤認』ですかね……。まず、『獅子は~』という言葉はご自分の方が目上の場合にのみ使われます。香川教授の手術は奇跡の数字を更新されていますよね?でしたら山本先生の手術が香川教授よりも上回る手技の持ち主だという客観的なデータを示して下さい。そうでなければ山本先生が獅子、そして香川教授が獅子の子という喩えは成り立ちません」
そんなデータは存在しないことは知っていた。祐樹の知る限り彼自身が執刀医になったことすらないのだから。
案の定絶句する。白いタラコ唇――というより肉付きが良いので白子のようにも見えるが――を悔しげに噛んでいた。
「御返事戴けないのでしたら、それは肯定と看做しますが如何ですか?」
先ほどの笑顔は嘘のように顔色がどす黒く変わっていく。笑顔は祐樹をゲイ・バー「グレイス」の常連客だったことを盾にして同性愛者疑惑を確定させるためのものだったのかと勘繰った。祐樹自身はそんなウワサを流されても馬耳東風だが。そのお相手として香川教授の名前が挙がることは彼の順風満帆な出世に関わるので避けたい事態だ。頭の固い病院の重鎮達には理解の範疇外だろうから。
「御返事がないようですので、次ですが、星川ナースに金銭を授与して、香川教授の手技のペースをワザと狂わせるようにしたのは山本先生ですか?途中で良心の呵責から反対してきた木村先生の意見を無視して?」
木村先生の立場を少しは向上させようと質問してみた。
「……そうだ。金銭は全て俺が用意した。
ただ、先行投資として斉藤病院長にはかなりの金品が渡っている。そして、香川教授がアメリカから帰って来なければ、順送り人事として黒木准教授が教授に……そしてあの人は温厚な人物だ。皆が一つずつステップアップするはずだと皆が信じていた。それを……」
奥歯の噛み締める音がした。どす黒い顔は、血圧の高そうな山本センセの血圧が怒りのために上昇しているに違いない。同情する気には全くなれないが。それにここは病院だ。何か山本センセに異状な症状が出れば速やかに対処出来るハズだと強気の攻勢に出る。
「具体的に巻き込んだのは、星川ナースと木村先生だけですか?」
彼は白いタラコ唇を意味ありげに釣り上げた。といっても全くサマにはなっていないが。
「香川教授の懐刀とか言われて、天狗に成っている研修医の田中『先生』に教えておくが……知りたければ調査した方がいいな。俺はそんなに親切な男ではない」
「そうでしょうね……。天狗になっている積りは有りませんが……。ただ、心臓外科医として香川教授のことはとても尊敬していますよ。ですからお手伝いに立場もわきまえず首を突っ込んだ次第です。ただし、あんな大人数の前での木村先生の証言があれば、斉藤医学部長も先生の処分は重いものになると愚考しますが……。まぁ一介の研修医のたわ言です。
彼が外科医にあるまじき鈍重さで立ち上がりかけたので、今までの鋭い視線は引っ込めて精一杯の笑顔を作る。彼の機先を制するように。先ほどから「先生」呼ばわりは不愉快だ。
「医学部長選挙の時にあれ程協力したのに……か?」
「どの程度協力なさったのかは存じませんが、斉藤医学部長も医師ですから……ね。都合の悪い部位を除去するのに躊躇はないでしょう。それに、彼は学長選挙にも出馬予定だとか……。クリーンなイメージを作られるでしょうね。大体ウチの学部が一番金銭の問題が多いと思いますよ。それが外部に漏れたら大変でしょうしね」
トドメとばかりに微笑んで言った。
彼の贅肉に包まれた太い肩が下がった。そこまでは考えていないようだったので。彼の太い足の揺れが激しくなる。
念のために携帯の録音ボタンを切って質問してみた。意気消沈していたら答えてくれるかも知れない。
「ところで、私は数日興信所の社員と思しき人間から尾行を受けています。また、盗聴器らしいものも発見しました。あれは山本先生の指図ですか?」
「……この期に及んでは黙っている価値はないな。その通りだ。父親が色々と調査依頼している事務所に頼んでみた」
何やらY記念病院も奇麗事だけで経営しているわけではなさそうだ。この件が片付いたら調査してもいいかも知れない。どうも、斉藤医学部長に取り入って甘い汁を吸いそうな山本センセの父親だったので。
「しかし何故私だけをターゲットになさったのですか?」
香川教授の弱みを探るなら彼に尾行が付きそうなものだ。が、その気配はない。彼の人間業とは思えない記憶力――もちろん褒め言葉だ――で心当たりがないのなら、香川教授に尾行は付いていないのだろう。
「香川教授の手術の時、田中先生が庇って怪我をした。当時の狼狽っぷりは医局の語り草になっている。2人の間に何か有ると思っても不思議ではないだろう?特に田中君はいわく付きのあるバーの常連で、香川教授が酔っている時にも救出に現れた。となると特に問題のなさそうな香川教授から調査するのではなく、搦め手から調査して、その後香川教授を……と思っていた。ただ、香川教授にも盗聴器は付けるように指示はしたが、何故か関係のない人間の声ばかりを拾ってくるそうだ」
舌打ちと共に忌忌しげな声がする。
こちらの手の内をあまり晒したくはないので、香川教授の盗聴器の件は黙っておく。
「関係のない人間の声を拾う」というのは、阿部師長の咄嗟の機転で服を着替えさせられた学部生だか院生だか知らないが、その声だろう。となると、最愛の彼の持ち物には盗聴器は仕込まれていないことになる。阿部師長にまたまた借りが出来てしまったのだなと思う。ただ、教授室に仕掛けられているかどうかは分からないが。
「ほほう……それは興信所の調査員がミスをしたのでは?私が確認したところ、今日もライターに仕込んであったようですが、あれだけですか?」
「田中『先生』は良くお分かりのようだ。だが、俺も手の内を全て見せない主義でね。ただ田中『先生』の家は忍び込みやすいとだけ言っておく」
先ほどの嫌味が効き過ぎたらしい。手術要員になれなかった無念さを祐樹で晴らしているようだった。聞き捨てならないのは祐樹の家に関してだ。確かにセキュリティのセの字もないマンションなので、きっと探せば出て来ると確信した。
だが、ドラマなどで見る盗聴器を発見する機械を部屋に入れてもらうという案も浮上したが、確かあれも警報音が鳴るハズで、それなら、杉田弁護士経由で興信所に圧力をかけて貰う方が確実なような気がした。あと二日、彼を祐樹の部屋に呼ばないでおけば問題は解決するのだから。彼に秘密を持ってしまうが、それでも心配させるよりもマシかと思った。これ以上彼に余計な心配は掛けたくない。この部屋での会話で、星川ナースと木村センセ以外の協力者の可能性が浮上してきた。そちらは報告しなければならない。となると彼の心痛がまた一つ加わることになるので。
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