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第十四章 第15話
さり気なく白衣のポケットに手を突っ込みながら――こんな仕事に従事しているのだから器用さには自信がある――決定的な証言が出て来る直前のオンにしようとボタンの上に指を置いた。
「ええ『被告』です。裁判所から呼び出されたらそうなりますね」
淡々と事実だけを告げる口調は、実は最愛の彼の真似だ。患者さんや、患者のご家族に説明する時に彼はいつもこんな声で話していた。彼の言葉は落ち着いていて明晰で……外科医にありがちな熱い口調ではないものの、患者さんに安心を与えるのが常だった。が、逆にこのような場面では威圧感を与えるだろうな……と思って真似をしてみる。
「…ひ…ひ…ひこく…」
彼の貧乏揺すりがますます酷くなる。祐樹も法律に関しては素人だが、グレイスで杉田弁護士と時々雑談してきた過去が役に立った。祐樹も医師だとバレてからはこっそり杉田弁護士だけには医学の相談に乗ったことも有ったので。ただ、盗聴器の一件だけはお礼をしていないな……と思う。落ち着いたら、お礼に行こうと決意する。その時、最愛の彼と一緒に行ければどれだけいいかと夢想していた。夢を現実にするためにこうして話したくもない山本センセと対峙しているのだから。
山本センセの顔色――赤くなったり白くなったりと中々面白い見世物ではあったが――から、山本センセは法律に祐樹以上に無知なことを確信する。
実は祐樹の言葉には嘘はない。ただ、重要な点をすっ飛ばしているだけだ。木村先生から貰った、祐樹の白衣のポケットに大事に仕舞いこまれているのは「不倫をした相手の配偶者からの慰謝料を請求されて、それを支払った」という一種の示談書だ。もう支払っているのだから、裁判所から呼び出しをされたとしても――まあ、自称モデルのミホという女性はカモを探して昔風の「美人局――つつもたせ――」をしている可能性が高いので、警察や裁判所に駆け込む可能性は低いが――「示談金を全額支払い済みです」という、今まさに祐樹がポケットの中に入れている書類の原本さえあれば、被告にすらならない。
そもそも民事裁判の被告というのは訴えられた人間が便宜上そう呼ばれるだけで、被告イコール犯罪者ではない。世間では誤解をしている人間は多いと杉田弁護士は苦笑していたが。
例えば祐樹が走っていて女性にぶつかり――その女性が運悪く長岡先生のような全身に身につけているモノの総額祐樹には想像を絶する程のセレブ――怪我はさせなかったがダイアの指輪のダイヤモンド部分が何処かへ転がり落ちてしまった場合でも、相手が怒り狂って裁判所に「損害賠償請求」の訴状を出せば、祐樹は被告となる。しかし、山本センセの赤くなったり白くなったりする顔を見る限りそういうことは知らないようだ。
大学病院の中という象牙の塔の中で権力闘争に首を突っ込み、仕事上相手をする人間が全て医師という一般社会からは浮き世離れした世界に身を置き――そして医療裁判は教授クラスの仕事で、そんな訴えられても弁護士に丸投げすることが一般的だ――だから山本センセは何も知らないのだろう。そしてプライベートでは、美女――なのだろう、祐樹は知らないが――をお持ち帰りするのを趣味として来た人なので、世界が非常に狭いのだろう。美女も知性派ではない人と適当に付き合って来たのだろうな……と思う。
その点、祐樹は趣味と実益を兼ねて息抜きに「グレイス」に通っていた。出会いも有ったが、祐樹が相手をしたいなと思わせるの美貌の主はそうそうは居ない。杉田弁護士やその友達と静かに呑んで話して帰るだけで充分仕事のストレスは発散出来ていたものだったが、今回は思わぬところで役に立った。
「先生は斉藤医学部長の御令嬢と結婚希望と仄聞しましたが、こういう過去が有ったのでは……」
齋藤医学部長の御令嬢が香川教授狙いでこの病院にアルバイトに来ていることはウワサで知っていた。そして長岡先生が香川教授のフィアンセというこれまたウワサが流れ――これは最愛の彼に聞いたことだが、長岡先生にはれっきとしたフィアンセが居り、その彼とは上手く行っているものの表沙汰に出来ない事情が有るので、長岡先生も香川教授も曖昧な笑みを浮かべてどっちつかずの態度を取っているとのことだ――医学部長の御令嬢の結婚話は宙に浮いている。関西一のお嬢様大学で英語を学んでいる才色兼備な女性らしいが、研修医の祐樹は尊顔を拝したこともないが、興味もない。最愛の彼が彼女に何の興味を抱いていないことは知っていたので。
「いや、それは相手に騙されて……」
感情の起伏がそのまま声に出た音程の滅茶苦茶な声だった。高くなったり低くなったりする。いよいよ核心に迫れると、録音ボタンを操作した。
「既婚者だとは知らなかった。遊びで付き合っていた。そしてホテルで密会中に旦那だと名乗る男が乗り込んで来て……言い逃れが出来ない状況を写真に撮られ、その後金を支払った。ただ、それだけのことだ。お互い楽しんだのだから、不法行為などはしていない」
録音モードが無事作動してくれることを祐樹は願っていた。多分大丈夫だろうが。このデーターを齋藤医学部長に聞かせることが出来れば、百パーセントの確率で、御令嬢との結婚話は無くなるだろう。そうなれば実家のY記念病院院長の席は絶望的となる。どういう形でケリが付くのであれ。K大学医学部長の御令嬢を妻にすれば、山本センセの父親と思しき院長もK大学付属病院に敬意を表して――しかも斉藤医学部長は学長選挙にも意欲的だというウワサがあった――もしかしたら不肖の長男を次期院長に指名するかもしれなかったので。
法律については祐樹も素人だ。法律論争は避けて次の話題――実はこちらが本命だったが――に移ることにする。全ては祐樹のペースで話しが進んでいるのは幸いだった。木村先生の証拠書類が無ければもう少し苦戦していただろう。魑魅魍魎が跋扈する大学病院勤務歴は山本センセの方が長い上に、そこそこ出世はしているのだから。
「それはさて置き、星川ナースに香川教授の手術妨害をする代わりに金銭を渡したのは、実際は山本センセお一人なのでは……?」
蒼白なタラコ唇――滅多にお目にかかれないシロモノだ――がゆっくり口を開く。
「手術妨害なんて…人聞きの悪いことを…。あれは『獅子の子は我が子を千尋の谷に突き落とす』という積りで、世界中で評価を欲しいままにしている教授の手技の冴えを見たくて……そして星川ナースにお願いをした。願いをするからには報酬を与えるのは当然のことだろう」
往生際が悪いとは思っていたがまさかここまで筋金入りとは……祐樹は冷たく口を開いた。
「先生のお言葉には論理破綻がありますね」
早くこの不快な部屋から飛び出して、最愛の彼の顔がむしょうに見たかった。その前に黒木准教授の手伝いも有る。とにかく一気にカタを付けようと眼光と口調を鋭くした。
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