326 / 403

第十四章 第14話

「まず、バー・グレイスですが、公序良俗に反する場所ではありませんよ。普通のバーです。そこに行ったからといって何ら咎めされる筋合いは有りませんが?確かに私は時々行きますが?」  たっぷりと肉の詰ったスボンが小刻みに揺れる不快感を押し隠して祐樹は先制攻撃を仕掛けた。 「ほう?精神科の――仮にA先生とでも呼ぼうか――は『特殊な性的嗜好を持つ人間が行くバーだ』と言っていたが……?それに、田中先生は、いかにもナースにモテそうなのに、実際、片思い中のナースも沢山いるのに、女性との浮いた噂は全く聞こえて来ないのは何故だろう?」  山本センセの詮索めいた笑顔も不快だった。教授室では憤怒の表情で祐樹を見詰めていたのに、この豹変振りは一体……。 「恋愛どころではありませんから。研修医として学ばなければならないことが山のようにありますし、夜は救急救命室のお手伝い……休日はデートではなく、家で寝ていたいもので……。『グレイス』は落ち着いて呑めるバーです。もちろん女性客も居ますし、そのA先生の思い違いでは?」  実は女性客は居ない。が、なまじの女性よりも女性らしい――もちろん服装もだ――男性の常連客は居る。それに、グレイス店内では口説きは禁止というのが表看板だ。その点は助かった。  案の定、山本センセの貧乏揺すりが激しくなり、目は宙を泳ぐ。彼自身確かめたわけではなく、A医師の言葉を鵜呑みにしてしまっていただけだろうと見当を付ける。 「何なら、今夜にでもご一緒しましょうか?どんなバーなのか分かって戴けると思いますが……」  口角を上げて祐樹は言った。この性癖を持つ男性の好みは奥が深い。太めの男性が好きという人種も居る。祐樹自身は全く理解出来ないのだが。祐樹の好みは最愛の彼のように皆が見て綺麗だと思うような男性だったので。  ただ、太めの人間が好きな性癖を持つのは華奢で綺麗な20代前半の男が多い傾向にある。そんな男性に意味ありげな目つきで見られたりする山本センセを見てみたいな……という悪戯心も生まれる。全ては祐樹の白衣の中に隠してある木村先生から託された証拠の品のせいで余裕が有ったからだ。  多分、グレイスで聞いた言葉だとは思うが「男性は品定めする目つきや、狩られる目つきに耐性が無い」と誰かの言葉を思い出して、一回山本センセにそういう目に遭わせてやりたいものだと思った。 「そうだな……斉藤医学部長の面談が無事に済んだら、行ってみても良いかも知れないな」  今の危機的状況が分かってないのか能天気にほざく山本センセに渾身の蹴りを入れたくなった。  彼は今まで順風満帆の人生だったのだろう。――ミホとか言う女性とのトラブルを引き起こしておきながらも懲りずに御見合いパーティに出席して女性漁りを繰り返して来たことでもそれは窺える――今まで、挫折知らずの人生を送って来た結果の楽観主義だろうが。祐樹にはそれが許しがたい。金銭的に恵まれた人間は腐る程見てきたので、そちらはそれ程気にならない。  そうではなくて患者さんの生死に関わるような大掛かりな陰謀を企みながら全く良心の痛みも感じず、なおかつ教授や准教授が医学部長に処分を要求するレベルの不祥事を起こしておきながら自分が何の処分を受けないと思える精神の甘さが。  杉田弁護士――彼は「グレイス」でも長老的存在なので――にでも頼んで、太った人が好きな人間を集めて狩られる目つきで複数の人間から見詰めさせようかといういささか意地の悪い思考が頭をよぎる。 「そのバーで教授が酔っ払っていた時にどうして田中先生が都合良く駆けつけ、しかも彼を店から連れ出したのかね?一緒のタクシーで帰ったと聞いているが……」  彼の目が詮索がましく祐樹の表情を探っている。が、この問いも想定内だった。模範解答は頭の中に有る。 「あのバーの経営者は以前ウチの病院に入院していらっしゃったんですよ。それが縁で常連客になったのですが。教授も同じです。だから経営者の方が気を利かせて『教授を迎えに来てくれ』と連絡が有りまして……。確かに香川教授とは当時、良好とは言えない関係にありましたが、上司は上司ですから迎えに行くのは部下として当然ではありませんか?山本先生だって、佐々木教授の在任中に、もし同じような電話が掛かって来れば迎えに行くでしょう?それと同じことです。それに、確かに教授は酔っていらっしゃいました。急性アルコール中毒を起こさないように看護する必要がありましたので一緒に居ましたが、それが何か問題でしょうか?」  理路整然と説明すると山本センセは目を白黒させている。「グレイス」のオーナーの上村氏は信頼に値する人物だし、一見の山本センセが問い合わせても不審に思って答えないハズだ。客商売――特にゲイ・バーという特に特殊な店を経営しているのだから――の人間は顧客のことはそうそう喋らないものだと祐樹も経験的に知っていた。 「ところで……木村先生から、貴重なものを頂きましたよ。人妻に手を出して、ご主人に訴えられる寸前だったとか……。普通のバーに通っただけですら問題視される山本先生は倫理観の強い方だと思いますが……こちらはれっきとした不法行為を行っていらっしゃるとは……」  さも呆れたというように頭を一振りして山本センセを鋭い目つきで見た。  その目つきに一瞬ビクリと貧乏揺すりが止まった。がその後山本センセの身体の振動が激しくなる。 「ふ……不法行為!!それに何故知っている?」 「木村先生に罪を被せたのが間違いでしたね。あれで木村先生は愛想が尽きたと……なので話して下さいました。それに立派な不法行為ですよ。民法に規定が有ります。ご主人が裁判所に駆け込めば、裁判沙汰になって、先生は被告ですよ?」 「ひ……被告って!?」  ひしゃげた声を出す山本センセを冷たく見据えていた。民法には自信が無かったが、多分合っていると思う。それに「被告」というのは民法と刑法では意味が違うと以前杉田弁護士から聞いたことがあった。   刑法で「被告」とは犯罪者と看做されて――判決が出るまでは――検察が起訴した人物をこう呼ぶが、民法では訴えられた人間が「被告」だ。が、テレビなどで良く流れる「被告」のイメージが強いので、一般人はまず「被告」と聞くとビックリすると杉田弁護士が言っていたのを思い出す。本当にその通りだな……と妙に関心した。  山本センセの顔にはもはや笑顔の片鱗もなく、オドオドした表情を浮かべていた。  祐樹は白衣のポケットに入れていた携帯電話を密かに録音モードにする。

ともだちにシェアしよう!