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第十四章 第13話
「有る。山本のやり方に疑問を持ってからは、私なりに証拠集めをして来た。特に香川教授の手術妨害について、知りながらも何もアクションを起こせなかったことは慙愧に耐えない。償いの積りで田中先生に差し上げる」
全てを告白して気が少しは楽になったのか、先ほどよりも機敏な動きで椅子から立ち上がり書類棚の方へ行く。祐樹が後ろから眺めていると「その他」と名付けられた書類フォルダーを取り出した。
机に戻り、書類フォルダーを開ける。中に入っていたものを無造作に祐樹に手渡してくれた。一枚はコピーされた書類で、もう片方はICチップのようだ。
「これには何が入っているのですか?」
書類に目を通しながらICチップをかざす。
書類も驚いたことに「不倫行為の慰謝料請求書類」と「慰謝料支払いの上の和解書類」だった。
基本的に医師は法律に無知なことが多い。大学でも必修講義で学ぶのは「医師法」のみだ。ただし、祐樹はゲイ・バー「グレイス」で好みのタイプが居ない時は杉田弁護士と雑談していたことが多い。祐樹は杉田弁護士に言わせると理想が高いとのことで……滅多に祐樹から声を掛けたことはなかったが。手持ち無沙汰の時に彼から聞く法律の話は面白かったので自ずから詳しくなった。
山本センセが相手をしたモデル――職業は嘘かもしれないが――はれっきとした既婚者だったらしい。既婚者と交渉に及んだ場合、その配偶者――ミホという人の夫――がその事実を掴んだ場合、慰謝料請求権が発生することを杉田弁護士はいつだったか祐樹に教えてくれた。まぁ、モデルのミホとやらも未婚と偽って御見合いパーティに行く女性だ。昔からある「美人局」の可能性は大きいが。旦那がそこそこ美人だというミホとやらに社会的地位の有る男性を誘惑させて、行為に及ばせその最中に乱入して金銭を要求するのが古来から有る「美人局――つつもたせ――」だ。それにハマってしまった山本センセもまぁ、自業自得だろうな…と思う。
「ICチップは、自称モデルのミホとその旦那との最後の話し合いをした時にこっそりと私が録音したものだ。同席を要求されたので断りきれずに行った時だ。
それとその書類は……山本が部屋を留守にしていた時に、机の上に置いてあったのを偶然見かけて――あいつの机の上はまるでカオスのようだからな、重要度に関わらず色々なものが積み重なっている――私も関わり合いのあることなのでツイツイ、コピーを取ってしまった。その二つを山本に突きつけたら、斉藤医学部長の前では借りて来た猫になるだろう」
「有り難うございます。香川教授に少しは木村先生のことをお取り成し出来ると思うのですが……」
深々と頭を下げて言ったが、木村先生は神妙な顔をしていた。
「いや、今回の件では、術死がいつ起ってもおかしくない状況に有ったことも知りながら黙っていた罪は非常に重い。私も香川教授と一緒に手術をしたかった……!それが出来ない歯痒さから、私怨に走ってしまった。だから無医村にでも医療過疎地にでも行って罪を償う積りだ。だから、香川教授への取り成しは謝絶する」
「そうですか……。有り難うございます。ではこの二つはお借りします」
「いや、返すには及ばない。もう使い道のないものだから。医学部長室で潔く裁きを受けて来ることにする。心臓外科を……宜しく頼む」
語尾は幽かに震えていて……彼なりの心臓外科への思いいれの深さを知る。仕出かしたことは大きいが、手術に呼んで貰えなかった彼の無念も少しは理解出来た。処分は免れないだろうが。ただ、祐樹と話したことによって少しは落ち着きを取り戻したらしい。先ほど柏木先生が「自殺しそうな……」と言っていた雰囲気は払拭されている。
「煙草、良かったら全部吸って下さい。差し上げます」
感謝の念を少しでも表現したくてそう言った。
「ああ、有り難う。貰っておく。山本と会うのだろう?頑張ってくれ」
「はい、有り難うございます。では失礼します」
木村センセはどこか清清しい表情で祐樹を見送ってくれた。
次は山本センセだ。まさか医局でいつものようにバカ話をしているわけではないだろうな……思う。先ほども医局には居なかった。なら山本センセの個室だろう。が、教授や黒木准教授の前であれほど山本センセを追及した祐樹を個室に入れてくれるかが気掛かりだった。最悪、居留守を使われることも有り得る。
教授室・准教授室と違って、講師や助手の個室は研修医にとっては気軽に入れる場所だ。ただし、山本センセの個室には入ったことがないが。
山本センセの個室に急ぐ。入ったことはないが場所は知っていた。部屋に入れるだろうかという危惧を裏切って、名前を告げると意外なことに、にこやかな口調で入室を許可された。
「田中先生か……散らかっていて済まないが、その椅子に座ってくれ」
椅子は助手室備え付けのものではないだろう。香川教授の応接用のソファーよりも座り心地が良いのだから。と言っても、良いのは座り心地だけで、部屋の中身は最愛の彼の部屋とは雲泥の差だ。先ほど木村センセはこの部屋をカオスと称したが当たっている。色々な書類や雑誌が滅茶苦茶に置いてあって目も当てられない。
祐樹は特に几帳面でも綺麗好きでもないが、この部屋の乱雑さは想像を絶する。
山本センセが自分の部屋が有りながら医局に入り浸っていたのは自分の部屋が汚すぎたのが原因では?と勘繰りたくなるほどだ。
しかし、山本センセのこの歓待振りはどうした風の吹き回しだろうかと思う。
「教授の意を受けて懐刀の田中先生のご出馬かな?」
前に腰を下した山本センセは目の奥に落ち着きのない光を宿して祐樹を覗き込む。高級――なのだろう――なソファーがギシリと音を立てた。その上、祐樹の前に座った山本センセは絶えず貧乏揺すりをしている。肉の詰ったズボンが揺れる様子が祐樹の不快感を煽る。
「いえ、教授は別に何も仰いません。私一人の判断で参りました」
「ほほう……田中先生は、香川教授に俺が最後に言ったセリフを聞いていないのかな?」
「いえ、それは伺いました。その件も含めて誤解を解いて戴こうとこうして参りました」
貧乏揺すりと余裕綽綽の笑顔が憎らしい。が、祐樹の白衣の裏ポケットには木村センセから貰った切り札が存在する。絶対、その笑顔を粉砕してから斉藤医学部長の部屋に送り込んでやる。そう決意した。
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