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第14章 第13話
「煙草……持っていないか?」
返す木村センセ唐突な質問に祐樹は驚いた。煙草は害も多いが気分を鎮静剤の作用も有る。尤も吸いすぎるとニコチン中毒になり、体内のニコチンが切れると麻薬と同様にニコチンが欲しくてイライラすることになる。病院の建物内は禁煙だが、個室を貰っている立場の人間がその個室で吸うことは黙認されている。というより、煙草や葉巻がステイタスだった時代に教授に成った人間が多いので。そのため教授室では灰皿が応接セットに置いてある教授室が多々有るというウワサだ。そういえば佐々木前教授時代には最愛の彼が今使っている部屋にもクリスタル――だろう。祐樹は高級品と縁がなく育ったので良くは知らないが――の灰皿が置いてあったことは知っている。香川教授があの部屋の主になってから灰皿は見当たらないが。
「はい、持っています。喫煙なさるとは知りませんでしたが」
彼に着せ掛けたのは祐樹のジャケットで、煙草はシャツの胸ポケットに入れておくのが祐樹の習慣だった。上着に入れてなくて良かったな……と思う。最愛の彼にジャケットを渡したことをこれっぽっちも後悔はしていないが。
上着のポケットに煙草を仕舞っていた場合、外のコンビニまで走らなければならない。
走ることは全く苦にならないが黒木准教授の仕事を手伝わなくてはならない。そのためには木村センセの話しを聞いて有益な情報を得ることが出来たなら、山本センセにも釘を刺して置ける。何しろ斉藤医学部長の面会予定時間までにやるべきことを全てしておきたかった。彼を守るために。
パッケージとライターを黙って手渡す。灰皿は見当たらなかったが、彼が震える手でライターに点火している間にゴミ箱――律儀にも可燃ゴミと資源ゴミに分けて置いてあった。こういうところからも彼の真面目な人となりは伺える――に缶コーヒのミニボトルとでも言うのだろうか?とにかく金属製でフタが大きい物が一番上に捨ててあったので、それを灰皿代わりに差し出した。
一息吸って煙を吐き出す木村センセを待ち構えているような視線で眺める。
「山本のスキャンダル……の話しだが、女性に手を出していた最中に彼女の夫と名乗る男性に踏み込まれ――本当に婚姻関係に有ったかどうかは分からないが――しかも、その女性の中絶費用まで請求されて金銭を渡している」
事実だけを列挙されても詳細や時系列が全く分からない。しかし、そんな過去が有ればそしてそれを証拠立てるものが有れるとすれば少なくとも斉藤医学部長の面談の時に教授の都合の悪いこと――自分との関係ーーそれも証拠は無い――については言及出来ないだろう。
「それはどういう経緯ですか?ご存知ならばお教え下さい」
せかせかと煙草を吸う木村センセはニコチンの作用で少しは落ち着きを取り戻したようだ。
「医師限定の御見合いパーティが有ることは知っているだろう?」
この期に及んで雑談はしないだろうと祐樹は頷いた。
「あれには色々な種類があるのだ。いわゆる婚活業者が女性の身元確認――例えば医師の令嬢とかお嬢様大学の卒業生とかフライト・アテンダントとかそういう女性でかつ未婚の人を法外な値段で入会させて、医師や弁護士、公認会計士などとの出会いを作り出すパーティだ。一方で、新聞に広告を出して一回のパーティだけで収益を上げる会社も存在する。男性は医師であることを証明するために名刺だけで大丈夫だし――婚活業者の方は医師免許の提示を求める――女性もパーティ費用だけを支払えば参加出来るというシステムもある。気は進まなかったが、山本に誘われてどちらのパーティにも参加したことが数回有った……な。山本がどんなに優秀な医師かを女性にアピールするために……。まぁ、田中先生なら黙って立っているだけで女性が集まるだろうが…山本はそんなタイプではないのは分かるだろう?だからアシスト役で」
祐樹としては苦笑するしかない。確かに学生時代は合コンで持てた記憶は有ったが。それに山本センセには「医師」という肩書きが無ければ女性には選ばれにくいだろうことは容易に想像が付く。いわば、サクラとして木村センセは山本センセに利用されていたのだろう。
祐樹としては、今のところ厄介ごとを早く解決させて最愛の彼に告白と謝罪の言葉を告げること以外にはプライベートでは考えられないが。彼の心が祐樹に傾いて呉れればどんなに幸せかと思う……ただそれだけだ。
「怪しげな業者のパーティでモデル――といっても自称なので本当なのかは分からない――のミホという女性に出逢った。中々の美女だったが、それが山本と付き合うことになった。驚いたことに深い関係になったのはその夜のことだった。それから山本はしばしば逢っていた」
祐樹のような特殊な性癖を持つ人間は出逢ったその夜にそんな交渉を持つことは珍しくもないが。木村センセは保守的な考えを持つ人間のようだった。価値観の相違についての議論をしている暇はない。
「交際しているうちに『妊娠したの』と言われたらしい。その頃、山本は斉藤医学部長の令嬢を狙っていたからな。身辺は清潔にしていなければならない。他の女性と付き合うだけでもかなりのマイナスだ。その上、相手が妊娠したとなると話はますますややこしくなる。で、堕胎費用を――それも実費だけでなくかなりの金額を――渡してそれで無かったことにしたわけだ。私はそんな母体に傷つけるようなことには断固反対したが。それなのに、山本はこともあろうに、星川ナースを堕胎させたのが私だと言い張った。私がどんな考えを持っているか知っての上の出来事だ。これは許しがたいとは思わないか?」
灰の部分が多くなった煙草が、木村センセの怒りに震える手の振動で灰が落ちた。そのことも気付かないで木村センセは激高した口調で言う。
「分かります。中絶は確かに母体を傷つけますから……それに、堕胎に反対していた木村先生のことを棚に上げての星川ナースへの堕胎疑惑は許せませんよね?」
祐樹にしてみれば、実際に手術を妨害した星川ナース、そしてそれを教唆した主犯格の山本センセ、巻き込まれたとはいえ改悛の情を見せず、バレた時に事情を説明した木村センセは五十歩百歩の存在に見えるが。最愛の彼がどんなに懊悩していたのか知っていたのでなおさらのこと。だが、迎合しないと詳しい話は聞けない。
「堕胎が終って、彼女の身体が回復してからもデートをしていた時に――いつもGホテルのスイートで逢っていたらしいが、その部屋に男性が踏み込んできた。夫だと名乗って。物凄い剣幕で山本を詰問したそうだ。そこでまた、金銭を要求された。しかも莫大な……」
山本センセの過去話には祐樹には初耳だった。医局で誇らしげにパーティの戦果を報告している姿は目にして来たが、まさかそんな過去があっても、まだ懲りずに女性をゲットしようとするコマメさは祐樹の想像を絶する。
「そのお話ですが、証拠は有りますか?」
無ければ、誤魔化されて終ってしまう。有って欲しいと一縷の望みを託して恐る恐る聞いた。
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