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第十四章 第11話

 祐樹は胸ポケットから煙草のパッケージを取り出し点火して深く煙を吸い込みながら考えた。風向きを考えて、彼には煙が行かないようにする。  山本センセがゲイ・バー「グレイス」での一件を知っている?祐樹はあの店で職業も勤務先も明かしたことはない。たとえ深い仲になった人間ですら。  店の関係者で祐樹の職業を知っているのはオーナーの上村氏と杉田弁護士だけのハズで、両者ともプライベートなことを迂闊に喋る人間ではない。 「グレイス」という店名だけでなく「グレイスの一件」と山本センセが意味ありげに教授に囁いたのは、多分、祐樹と教授がよもやの邂逅をし、二人して店を出た時のことを指しているのだろう。同性との恋愛が服務規程に反しているとは思えないが、頭の固い――というウワサの――斉藤病院長の耳に入れば教授の身の上に厄介ごとが降りかかる可能性は高い。  横に佇む彼は散りかけた白い薔薇の雰囲気だった。気高いが物憂く儚げだ。シャツ一枚では流石に寒いのか形の良い唇が白くなり、幽かに震えている。祐樹は白衣を脱ぐと、自分のジャケットを肩に着せ掛けた。 「寒いでしょうから着て下さい。貴方の大切な手が凍えてしまっては困ります」  微笑みかけると唇を笑みの形に――明らかに無理をしている風情で――作る。祐樹の不審な行動を何も聞かず、ましてや詰りもせずに黙って従う彼を見ていると罪悪感に胸が締め付けられる。ポケットに何も入っていないのは確認済みだった。 「有り難う。この上着は何時返せば?」 「何時でもいいですよ。また教授室に取りに行きますから。では、私はこれで」  夕方の気配がする。その夕闇に溶けてしまいそうな彼の姿――多分、祐樹の存在も彼に取っては傷心の一部分なのだろう――を見ているのが辛かった。真実を告白してしまいそうになる。が、告白しても事態は変わらない上に、更に彼の心痛を深める結果となる以上は黙っているべきだと。祐樹は一瞬目を硬く閉じて、気持ちを切り替えた。 「私は医局に戻ります。季節の変わり目ですので、お身体を大切にして下さい」 「……ああ、色々と済まない。私のために祐樹にまで迷惑を掛けてしまった」  教授室で聞いた時よりも憂いを帯びた声だった。強いて明るい声で返事をする。 「いえ、部下としての務めですから。医学部長室では上手くいくと良いですね。では」  振り返りたかった。振り返って彼の元に駆け寄り抱き締めたかった。抱き締めてキスをしたかった。が、興信所がどのような動きをしているのか分からない今、そうすることが出来ないのが歯痒い。  歩き出して、そっと彼を窺い見ると彼の白い顔は上を向き、苦痛を堪える顔をしていた。その様子はひどく切なげで、そして憂愁の美を湛えていた。 ――全てが解決したら、心の底から陳謝して思いの丈を告白しよう。たとえ振られるとしても――  何度目かももう分からない決意を胸に秘めた。振り返ってしまうと、とめどなく溢れる彼への感情を全て告げたくなってしまうだろうから。盗聴器が存在する可能性が有る以上それは出来ないと、祐樹は断腸の思いで彼の元から走り去った。  息も乱さず医局に着くと、祐樹の姿を素早く見つけた柏木先生が手招きをする。 「さっきから木村先生の様子がおかしい。自殺でもしそうな勢いだ」  深刻そうに告げる。そう言えば准教授室で漏らした笑みから彼も「グレイス」での一件を知ってそうだ。 「木村先生、お話しがあります。宜しければ先生の個室で」  顔を覗き込んで話すが、確かに目は虚ろで全く生気が感じられない。 「田中先生か…構わないよ」  そう言って外科医らしからぬ危なっかしい足取りで医局を出て行く。その様子を柏木先生が気遣わしげに見送っていた。祐樹は黒木准教授の手伝いに行かねばならない身の上だ。その歩みの遅さにイライラするが、「まだ」上司だ。催促は出来ない。    木村先生の講師用個室は、祐樹が読みたかった最新の医学誌が綺麗に並べられ、また患者さんのカルテの複製が――許可済みとのハンコを押されて――整然と並んでいる。彼なりに真摯に患者さんと向き合って来た証だろう。山本センセに付け込まれることさえなければ良い医師だったとしみじみ思う。 「山本先生は、多分、先生こそが諸悪の根源だと主張されると思われます。もちろん先生は罪の償いをしなければなりませんが……その前に聞きたいことがあります。お答え次第では、教授に取り成すことも出来るかと思うのですが」  全ての力が尽きてしまったかのように椅子に座った木村先生に立ったままで祐樹は言った。木村センセは疲れきった表情ながらも自分の罪が白日の下に晒され、少しは罪悪感が薄れたのだろうか清清しい表情も浮かべていた。 「香川教授の弱みをどれくらい山本が知っているか……だろう?アイツは針小棒大に言うクセがある。掴んでいる事実はこれだけだ。とある有名なゲイ・バーに通い詰めているこの病院の精神科医が居ることを山本は知った。別に名前は良いだろう?山本は人の秘密を嗅ぎ付けるのがとても上手い。別にゲイ・バー通っても法律上何の問題もないが、あまり公に出来ることでない。  そこで取引を持ちかけた。何か知っていることはないかと。すると、香川教授が数日間出入りしていたこと、そして最後の日は田中先生がその店にやって来て彼を連れ出したということ。それだけだ。田中先生とは年も違うし、病棟も違う。田中先生のことは先方は知っていたそうだ。時々来る客で、ウチの病院の医師だということも。何しろ先生は目立つからな。だが、その先生は目立たない人なので多分田中先生は分からないだろう。  そこから推論というと論拠が薄弱だが、教授と田中先生の2人の間にそういう関係が有るのでは?と山本は言っている。極めつけは手術中に起きた田中先生の怪我の件だ。あれは手術室に居た人間全てが教授の動揺ぶりに驚愕した。その時には、星川ナースは香川教授の手術からは外されていたので、教授と田中先生の関係を調査すべく探偵社に依頼をしたと言っていた」  他人事のように淡々と話す。祐樹は、山本センセが確信を抱いていないことを知って安堵した。興信所に依頼をして実際に調査に動いたのは話しの流れからすると、祐樹が気付いた日のようだ。それならば、祐樹が興信所の尾行を振り切ったせいもあり、2人の関係に関する証拠はないだろう。そして、彼は山本と呼び捨てにしている。敬称を外すのは彼を見限った時ではないだろうか?大学病院では敬称を付ける慣習になっているので。 「山本センセと親しかったのですよね?何か彼の弱みをご存知ですか?」  思い切って聞いてみた。齋藤医学部長との面談の時に最愛の彼に反撃の材料を与えたい一心で。  彼はうっすらと笑った。 「知っている。もう山本には愛想が尽きた。借金を返済する義務は有るが、それ以外の義理はない。香川教授に伝えてくれ。それを今から言うから」  落ち着いた声だったが、口調には怒りの感情が含まれているのを感じた。

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