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第十四章 第10話

 机の上に載せていた掌に力が入るのが分かった。白くしなやかな指先が強張っている。  己の罪を悔いたのか俯いていた木村センセは気付かなかったようだが、黒木准教授は不審そうに教授を見詰めていた。祐樹もこの期に及んで山本センセの悪あがきがとても気になった。山本センセはふてくされた表情を浮かべている。祐樹の鋭い視線を受けると、慌てたように目を逸らせる。が、意味ありげな笑いを浮かべている。  張り詰めた空気が教授室に流れる。 「青木さん」  彼はいつもより僅かに力のない声――と言っても祐樹にしか分からない程度だろうが――で隣室に呼びかけた。多分秘書の名前だろう。 「はい。何か御用でしょうか?」  隣室からベテランの秘書が顔を出す。 「斉藤医学部長に可及的速やかにお会いしたいとアポイントメントを取って戴きたいのですが」 「承りました。教授のスケジュール変更はございませんね?」 「はい。手術以外の時間なら何時でも構いません」  何か常ならぬことが起っていることは察しているだろうが、秘書としてのキャリアの長い彼女は冷静な表情を崩さない。 「斉藤医学部長との面談には山本先生と木村先生には同席して頂きます。そして黒木准教授も医局の次席責任者として立会いをお願いしたいのですが?」  祐樹だけが蚊帳の外で残念だが、それは仕方のないことだ。所詮大学病院はヒエラルキー社会なのだから。  ただ、彼の口調には何だか義務だけで話しているような無機質なものを感じるのが気になった。 「もちろんです。この問題の根本には――私があずかり知らなかったとはいえ――私にも責任が有りますから。最悪の場合、辞表を提出する覚悟です」  その一言に室内に声なき動揺が走る。 「いえ、医局をまとめ切れなかったのはあくまで私自身です。責任の所在は私に有りますので、辞表を出すとすれば私です」  彼の静謐な決意を滲ませた声に、皆がギョッとしたように顔を上げる。山本センセだけが脂ぎった顔に悪意を滲ませていたが。それ以外は皆呆然自失の様子だった。祐樹も彼の決意表明に驚愕していた。 「お話中、失礼致します。医学部長は今日の5時半から一時間ならお時間を取れるとのことですが……。医学部長の部屋にご足労願えればとのことです」  隣室からノックをして入室してきた青木秘書がキビキビとした口調で言う。 「分かりました。では五時半に。黒木准教授は事の経過をご存知でいらっしゃいますね。簡単な報告書を作成して戴きたいのですが。時間の許す範囲で構いませんので」  確かに五時半までは一時間しかない。報告書作成も大変だろう。 「私も及ばずながらご助力をと思うのですが……」  黒木准教授は祐樹に向かって笑みを見せ、教授の方を向いた。 「確かに、今回の件で田中先生には大変力になって貰いました。是非とも彼の協力をお願いしたいのですが……」 「分かりました。ただ、田中先生には少し話しがありますので、その後准教授室に向かってもらうということで構いませんか?」 「もちろんです。では私はこれで…。山本君、木村君も指示があるまで医局で待機したまえ」  香川教授が精彩を欠いていることは分かったのだろう。黒木准教授は教授の顔色を気遣わしげに見遣りながら准教授としての命令を出した。  木村センセは従容として、山本センセは開き直ったような笑みを浮かべて退室する。それを確かめてから黒木准教授も慌しげに教授室から姿を消した。 「山本センセは何を?」  最愛の彼に危害を加える可能性が有った山本センセが室内から姿を消したので、祐樹は彼の横に回り、彼の澄んだ瞳をじっと凝視した。 「ああ、その件か…」  彼の瞳が沈痛な光を宿している。薄く形の良い唇が次の言葉を発する前に、彼の唇に指を当てて制止させる。祐樹のライターに盗聴器が仕込まれていたのだから、この部屋も危険だ。山本センセの様子からして、まだ諦めた様子はない。往生際が悪いが、良くも悪くも大学病院ではそういう人間が跳梁跋扈している。  唇に指を当てた途端、彼の身体にさざ波のような震えが走った。瞳も直ぐに逸らされる。それを痛々しげに見ながらも、傷心の彼にこれ以上の心労を掛けてはならないとくじけそうになる心を叱咤激励した。  盗聴器があるとすればこの部屋の中か彼の服のどこかだろう。祐樹の時はライターだった。医局のロッカーに入ることが出来て、かつそんなに複雑ではない鍵を開けることが出来ればポケットに滑り込ませればコトは済む。彼はライターのようなマイクを仕掛けることの容易なものを持ち歩いていない。それに杉田弁護士の言葉を信じるなら、彼のマンション――祐樹は残念ながら入れて貰ったことはないが――はセキュリティも万全のハズだ。彼が術衣に着替える場所も教授専用の部屋で部外者は入れないハズ。それに彼が手術でこの部屋を留守にしても青木秘書の勤務時間内のハズで、彼女なら隣室に他人の気配にも敏感そうだ。 『上着を脱いで、付いて来て下さい』  彼の机上に有ったメモ用紙にそう書く。今は五月だ。上着を着なくても風邪を引くことはないだろう。彼は黙って頷くとジャケットを脱いだ。隣室の秘書にしばらく席を外すと断って祐樹の後に続く。祐樹が案内したのは祐樹のお気に入りの喫煙場所だった。ここで病院関係者を見たことはない。  白いシャツに負けないほど、顔色も白くなっている彼を癒すように見詰めて聞いた。 「山本センセに何を言われたのですか?」 「……『グレイスでの一件を知っている。それを医学部長に言うがそれでも構わないか?』と」  彼の形の良い唇が言いにくそうに言葉を紡ぐ。山本センセの情報収集能力には脱帽するしかない。が、祐樹としては彼を失うことさえなければバラされても別に痛痒は感じない。 「成る程、そんなことまで知っていたのですか……。貴方と関係があったのは事実ですから、私はその件で責任追及されても仕方がないと思っています。仮に僻地の病院に左遷されても自業自得と諦めます……よ」  彼を力付ける積りでそう言ったのだが。彼の雄弁な瞳はますます悲しみの色に染まった。

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