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第十四章 第9話

「ご実家では、次期院長を弟君に継がせるお積りでは?先生が院内政治にあれだけの潤沢な資金を提供されたのは、『大学内で出世しろ。その代わり病院経営は弟君に任せよう』という親心だったのではありませんか?先の医学部長選挙では先生のポケットマネーからかなりの金銭が出たと私が直接伺いました。斉藤医学部長が今の地位にいらっしゃることが出来たのも先生のお力が有ったからこそだと。心臓外科の専門医を目指すならば医学部長選挙に絡む必要は有りませんよね?一度ご両親の真意を確かめてみるべきでは?  Y記念病院のベッド数も調べさせて戴きました。今現在こそ、心臓外科のベッド数は多いですが、所詮はこの近くにある病院です。世界的に認められた心臓バイバス術の手技を持った教授がウチの病院にいらっしゃる限り――それに、今でこそ急を要する心臓バイパス術だけの手術をなさっていますが、心臓外科専門医としての手技の冴えからすると教授は心臓カテーテルの手術も難なくこなせるのではありませんか?黒木准教授?」  黒木准教授こそが、前佐々木教授の第一助手の座を長く務めて来た人だ。彼の意見もこの際聞いておくべきだろう。  黒木准教授は未だ怒りに赤く顔を染めていたのだが、真剣で冷徹な表情に戻りしばらく思惟を巡らせていた。 「バイパス術の方が難易度は遥かに高いです。そのバイパス術を、しかも妨害工作まで企まれてもなお、術死が無かったことを鑑みれば、答えは自ずと明らかです。それに私とて佐々木前教授の代理として執刀医の経験は有ります。素晴らしい天稟をお持ちの香川教授に私の拙い手技で良ければ喜んでお教えする積りです」  冷徹な外科医の口調に戻って黒木准教授は教授と祐樹を視線の方向から考えると交互に見詰めて言い切った。 「佐々木前教授の後継者と貴方方――それが山本先生だけを指すのかどうかは分かりませんが――が認めていた黒木准教授の御言葉です。Y記念病院よりもウチの病院に入院する心疾患の重篤な患者さんが多くなることは火を見るよりも明らかです。そのことはY記念病院の現院長もお分かりのはず。それならば、心疾患のベッド数を減らしていわゆる癌患者さんに特化した病院の再構築を目論むのが理想的な病院のあり方だろうと思うのですが。弟君は確か癌専門医ですよね。O市大学病院の?なかなか優秀な医師だとお聞きしています」  最後の言葉は祐樹の憶測だったが、どうやら図星だったらしい。  彼の太い肩ががっくりと下がった。  彼も内心ではそのことを危惧していたのだろう。単なる大学病院勤務よりも、Y記念病院の院長の方が――名誉はともかく――収入や社会的な通りは良いのは確かだ。祐樹などには二者択一が出来て羨ましいと思う反面、「二兎を追うもの一兎も得ず」だなと思う。  結局山本センセは、斉藤医学部長に良いように使われ――医学部長の臆面のない院内政治もどうかと思うが――医学部長のご令嬢との結婚話もいつの間にか立ち消えになってしまっている。この結婚話には最愛の彼も一枚噛んでいるようだが、その点は深く考えるのは止めようと思った。彼は祐樹の知る限り、女性と逢っている気配は全くないのだから。   それに彼の本質は器用そうに見えて人間関係はとことん不器用な面があることも分かっている。女性が彼に下心を持って近付いても本人は全く気付かないのではないだろうかと思ってしまう。彼が変装をしてこの病院から抜け出した時――行き先は協力者である杉田弁護士の事務所だが――のナース達の騒ぎっぷりなど、祐樹からすれば彼の優しげな美貌と理想的な身体のバランスを一目見たいがために集まってきたのは明白だった。が、彼は全くそういう考えがなかった件でも明らかだ。  教授は水分を失った花が首を垂れているかのように白いうなじを祐樹に晒したままだった。彼が衝撃を受けたのは山本センセや木村センセの裏切りだけではないなと思った。  机の向こう側からは黒木准教授が心配そうに教授を見ている。恐らくは教授が医局に2人も医師として、また人間としてもしてはならないことを仕出かした部下が居たことが教授の憔悴振りの原因だと思っているに違いない。  山本センセがはっきりとは言わないまでも、祐樹の追及に満足に答えられないのを見て、彼の腕を掴む手を強くした。 「勿論、この処分は軽くはないことは承知しているね?」  肝心の教授が何も言わないので、ここは自分が発言した方が良いと判断したのだろう。  木村センセは蒼白な顔ながら素直に頷いた。 「この件は、一歩間違えれば術死になっていたと思われます。院内規定により『リスクマネンジメント委員会』に報告し、当事者である山本・木村両先生と実行犯である星川ナースの処分をお任せするのが筋だと思いますが」  何時もの彼の凛として良く響く綺麗な声が沈痛の色を帯びている。先ほどまでは俯いていたがやっと前を向いて発言した。カッターシャツから覗く白く細い首筋が祐樹には眩しい。 「いいえ、お言葉を返すようですが……それには反対致します」  黒木准教授が冷静な声で言った。先ほどの激高した様子は露ほども見せない。やはりこの人も根っからの外科医なのだな…と思う。切り替えの早さが外科医の身上だ。 「反対?何故ですか?」  疲れを帯びた最愛の彼の口調だった。使命感だけで発音しているような……。  黒木准教授が思わせぶりに祐樹を見る。 「教授は失礼ながら、着任後一ヶ月です。この大学の『リスクマネンジメント委員会』は教授がご存知のアメリカ式とは全く違うものでして……この国の弊害です。アメリカを規範にした組織を作ったのはいいのですが、実質は全く伴っていません。それにこの委員会では当事者が処分されるのではなく、医局の責任者――つまり教授――が非難の矢面に立たされます。実際に術死が起こったわけではないのですから」  祐樹も助け舟を出すべく発言した。 「当事者が処分されずに、必死で術死を食い止めた教授がこの病院の重鎮の先生に批判されるのを黙って見てはいられません。せめて、斉藤医学部長にだけ内々に相談という形にされては?」  祐樹の口調に何かしら感じることがあったのだろう。 「今回の最大の功労者は田中先生だ。その意見に私は従おう」  彼にしては珍しい物憂い声だった。それよりも祐樹が違和感を抱いたのは彼が祐樹を呼ぶ名前だった。いつもは「ゆ…田中君」とツイ苗字ではなく名前を呼んでしまうといった風情だったのに。顔が険しくなるのを自覚した。  山本センセに目を転じた。顔に不気味な笑みを浮かべていた。 「斉藤医学部長へ…ね。喜んで」  そう言って黒木准教授に腕を掴まれたまま、一歩前へ出た。香川教授に耳打ちをする。それはほんの僅かな時間だったが、聞いた彼は、ますますその肢体を硬くする。  一体何を囁いたのだろうか?

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