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第十四章 第8話
何時もより沈痛な声の様子はとても気掛かりだったが、まさかこれだけの人数が一堂に会する教授室でプライベートなことは聞けるはずもなく……祐樹は気持ちを強いて切り替えた。
「星川ナースを取り込んだのは、彼女がお金に困っていることをどこからともなく聞きつけた山本先生ですね?何しろ廊下トンビのように色々な噂を拾い集めるのはお得意でしょうから……」
木村センセの証言からは、星川ナースと木村センセが知り合いだったという事実は浮かび上がらなかった。ということは木村センセが知りえた情報では有り得ない。
山本センセは血走った目と脂ぎった顔、そして不可解な笑みを祐樹と多分教授にも向けている。この期に及んで微笑が出るのか分からなかったが。しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開く。ようやく観念したかのように。
「ああ、そうだ。通用口で携帯で通話している彼女の会話を聞かせて貰った。相手はクレジット会社のようだったよ。かなり厳しい督促のようだったな」
そういえば、祐樹が母と話しているところも聞かれたな…手と思い起こす。が、別にこちらは聞かれてマズい話をしていたわけではない。
「それで彼女に近付いたわけですか?」
「金には困らない身分のどこぞの教授には分からない苦労だろうが、金融機関やクレジット会社――しかもブラックな金融機関は特に――取り立ても厳しい。法律で禁止されていることは一切しないがあちらもプロだ。法律の裏をかいくぐってのあれやこれやの督促をしてくる。そうなれば、別の闇金に手を出して……雪だるま式に借金が増えるという寸法だ。もうそうなると、視野狭窄を起こして金のためなら何でも言うことを聞くようになる」
最初の言葉にカチンと来た。教授は確かに――祐樹も具体的な数字は知らないし、特に知りたくもないが…、彼の存在自体が祐樹を虜にしているだけで彼に付随している教授としての地位や今までに築いた彼の貯金などはどうでも良かった。別にそんなものがなくても、祐樹は彼に惹かれていたと今となっては断言出来るーー「今現在」はお金に困って居ないが、それは独力で築き上げたモノだ。誰かに貰ったとかは一切ない。
「お金に困っていないのは山本先生も同じですよね?星川ナースに渡した金額、そして木村先生に渡した金額を合算すれば助手とはいえ勤務医の貴方が融通出来るハズもないでしょうから。それに教授はご自身の手術の腕だけで稼ぎ出されています。ご両親の財産だか、Y記念病院からの不労所得だかは知りませんが……とにかく山本先生のように天から降って来る大金とはわけが違いますよ」
旧国立大学の病院勤務の医師は準公務員扱いで、つまりはアルバイトが出来ない。私立病院勤務なら夜勤を掛け持ちする医師が多いのだが。山本センセがお金を湯水のように使うことが出来たのは、実家であるY記念病院からこっそりと給与を貰っているか、両親に強請ってのことに違いない。私立病院での夜勤のアルバイトは相場が一晩5万だと聞いている。契約形態にもよるだろうが。山本センセが夜勤のアルバイトをしているという気配はない。土日も医師限定のお見合いパーティ出席に忙しかったハズだ。その時の武勇伝を医局で苦々しく聞いていたのでそれは確かだった。
仮に夜な夜なアルバイトをしても月収はプラス150万だろう。星川ナースと木村センセへの金銭貸与を全てまかないきれるとは到底思えない。
案の定、山本センセの顔が真っ赤になり、その後白くなった。医者の不養生の典型とでも言うべき――喫煙者である祐樹もその点では同じだが――突き出た腹に象徴される贅肉は顔にまで及んでおり、その丸い顔が赤くなったり白くなったりする点だけは見ていて憫笑を誘う。笑っている場合ではなかったが。
「田中『先生』は何でもお見通しのようだな。借金で切羽詰った星川ナースに確かに頼んだ。『香川教授の手術の妨害をするように』と」
祐樹の容赦ない口調と鋭い視線から、これ以上はぐらかすと不労所得の件まで調べられると思ったのかもしれない。意外に簡単に認めた。
「香川教授の手術妨害」という言葉が発せられた時、祐樹の前に座っている最愛の彼の少し華奢な肩が震えた。最愛の彼がどんな顔をして――信頼していなかったにせよ、部下は部下だ――のあからさまな裏切り行為の件を聞いていたのか知りたかったが。力付けるように肩に手を置きたかった。しかし、見ている人間が多すぎる。そのような行動は慎むべきだと理性が止めた。
「何たることだ。医師としてあるまじき行為だ。いやそれ以前に人間として恥ずかしくないのか?星川ナースのみならず、木村先生まで巻き込んで患者さんの命を危険にさらすなど言語道断だ!」
無言の教授に代わって黒木准教授が激高した声で叱咤した。
「山本先生は、この病院をステップアップの場所としか位置づけていらっしゃらないのでしょう?目指すのは、Y記念病院の院長の座……ですよね?その目的のためには医師としても人間としても良心を手放しても良いとお考えになったのでは?何としてでも心臓外科の専門医になるしかなかった。違いますか?そのために斉藤医学部長にも取り入ってらっしゃいましたよね?」
昨夜調べた事実と、木村センセへの事情聴取や以前の彼の言葉から決め付けるように言った。
「何を言う。研修医風情が偉そうに。確かに実家はY記念病院だ。だが、俺は長男だから、跡を継ぐ権利は当然持っている」
赤い顔が今度は白くなっている。痛いところを突かれたな……と内心でほくそえんだ。祐樹も昨日ダテにY記念病院のことを調べたわけではない。だが、一点だけ気になることが有った。彼の顔に張り付いている一種余裕めいた不気味な笑みだ。
「確かに研修医の身分で差し出がましいことを申し上げました。ただし、今は医局の長である教授に許可を戴いてお話しをしています。長男だから病院長を継げるというのは、少し虫の良い話ですよね?江戸時代でもあるまいし。優秀な癌専門医の弟君もいらっしゃるのに……。先生が怖かったのは弟君がY記念病院の次期院長となることだったのでは?」
山本センセは海から上がったチョウチンアンコウのように口をパクパクさせているだけで、言葉が出ない様子だった。図星だな……と祐樹は思った。だが、最愛の彼をあんなにまで憔悴させた報復がまだだ。トドメとばかりに言い放った。
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