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第十四章 第7話
「星川ナースに入金した金額は、手切れ金としては高額ですよね?しかも木村先生は、男女の仲になっていないと仰っていますし……そうですよね?木村先生?」
蒼白な顔をしている木村センセに確かめる。
「そうです。神かけて違います。それに万が一、そういう関係になったとしても女性が妊娠すれば結婚して責任は取ります」
その言葉に山本センセは歯軋りして木村センセを睨んだ。が、木村センセは覚悟を決めたのか、それとも山本センセに愛想が尽きたのか山本センセの炎のような視線を静かに受け止めている。
「愛人関係にあった男女の手切れ金のような金額ですよね。この金額は……。しかし、そんな事実もないとすれば、違法な行為かモラルに反した行為の口止め料と考えるのが妥当ですよね?」
先ほどまで黒木准教授の部屋での事情聴取を思い返しながら祐樹は言った。
「黒木准教授、先ほど木村先生が仰った金銭の授受の目的は?」
黒木准教授は我に返ったようだった。教授よりも先ほどの会話を聞いているだけのことはあって立ち直りは早い。
教授はまだ、水分が不足した花の茎のような白い首項垂れさせている。その様子を気遣わしげに眺める。
彼は大学病院の泥沼のような人間関係と無縁で教授の地位を掴んだだけなのだから、ショックは大きいのだろう。彼が性格的に弱いのではなく免疫の問題だろう。全てが片付いたら、祐樹はありのままを彼に告げて――現在、彼に心配を掛けないように黙っていることも含めて――謝罪をする積りだった。興信所の脅威はあと二日で片付くハズなのだから。トラブルが長期化するならば、彼に現在の状況を告げて協力を求める方が良策だが、杉田弁護士は自信を持って日にちを切ってくれた。彼が動いてくれるならばかなりの確率で興信所の件は片付くだろう。ならば、無用な心配を掛ける必要はないだろうと。
黒木准教授は太い首を苛立たしげに振って吐き捨てるように言った。祐樹が自分の部下であることも今は忘れているようだった。
「香川教授の手術の妨害だ」
「嘘だ……!そんなことは……ない!あくまでもプライベートな問題での金銭授与だ」
語気を荒げて山本センセは拘泥する。
「往生際が悪い方ですね。木村先生は認めましたよ?」
小さい子供に言い聞かせるように祐樹は言った。
「どこに証拠がある?」
「黒木准教授が録音されていらっしゃいます。十分証拠になると思うのですが」
黒木准教授も白衣のポケットからボイスレコーダーを出してこれ見よがしに振った。
「何なら再生しようか?木村君の証言は全てこの中に入っているよ。それにこのボイスレコーダーはICチップ入りなので、パソコンなどでも再生可能だ」
山本センセは、自分の腕を掴んでいる黒木准教授を振り切るような動作をした。が、黒木准教授の力は、体重に比例しているかのようだ。なかなか振りほどけない。
「おっと……実はボイスレコーダー本体だけでなく、私のパソコンにも保存済みだよ」
黒木准教授は山本センセに向かってのんびりと宣言する。祐樹にもそしておそらくは木村センセにも分かっているだろうが、それは嘘だ。あんな短い時間にパソコンに落とす時間は無かった。が、教授室に居た山本センセには分からないだろう。もちろん教授にも。
山本センセの抵抗が弱まった。黒木准教授の嘘を真に受けたのだろう。
「どうして山本先生が香川教授の手術妨害を企んだのかですが、私なりに推論があります。違っていたら言って下さい」
鋭い目つきをして祐樹は言った。もともとそういう目つきには自信が有る。山本センセが唾を飲み込む音が静かな教授室に大きく響く。そういえば、上司に向かってそんな視線を送ったことはなかったな……と思う。黒木准教授や木村センセも驚いたように祐樹を見ていた。唯一、祐樹の前に座っている教授だけは祐樹の顔を見ていない。
「入金は三月からですよね?これは香川教授の着任前です。ということは、香川教授の性格や手技には関係なく教授を追い落とそうとする意図がみえます。要は香川教授自身の問題ではなく、黒木准教授以外が医局の長になることが許せなかった。違いますか?」
ボイスレコーダーの記録が複数有ることを知ったせいか、山本センセも諦めたようだった。
「……そうだ。黒木准教授が本来は順送りで教授になるという前提で我々は動いていた。黒木准教授は皆が知っているように温厚な人物で、医局に余計な波風を立てるような方ではない。とすると、全てが順送り人事になるだろうというのが我々の読みだった……」
「我々」という言い方が祐樹の胸に違和感をもたらした。
「我々とは?」
山本センセは意地悪な笑い方をした。一矢を報いてやるとでも言いたそうな。
「それは自分で調べたまえ。今は、俺の調査だろう?」
「では、どうしてもその人については言いたくないと?」
「ああ、言う気はないね。ここは警察じゃない。単なる大学病院の事情聴取のハズだ。しかも田中『先生』の狙いは、香川教授の手術妨害を止めさせることだ。違うかね?」
嫌味ったらしく「先生」と発音する。別に気にはしないが。
「そうですね。一番の目的は、手術妨害を防止することですが、星川ナースが手術から外れたことで回避出来ました。あとは当事者の処分です」
「処分するのは、上司である教授の仕事だ。研修医の田中先生にはその権限がないことくらいは承知の上だろう?」
含みのある笑いと視線に違和感を覚えた。確かに研修医の祐樹には上司を裁く権限はない。それは祐樹も承知の上だったが…。何となく不愉快な視線。まさか何かを知っている?
「ええ、山本先生が仰る通りです。ただし、手術に参加した身ですから、私にも当事者として聞く権利が有ります。ですよね?教授?」
祐樹に尋問を任す気になったのか、それとも他の理由からかは分からないが、最愛の彼の凛とした声が響いた。
「田中先生に全てを委ねる。先ほども黒木准教授が仰っていた。木村先生の事情聴取は田中先生の多大な協力が有ったからこそ上手く行ったと」
後ろを向いて祐樹を見ないままに、耳には心地よいが普段より硬い声で最愛の彼は言った。
いつもなら、彼は祐樹の目を見て答えるハズだ。祐樹に含むところがあるのだろうか?
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