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第十四章 第6話

「あくまでも、木村先生が星川ナースにお金を振り込んだ理由は手切れ金だとまだ言い張るのですか?」  上司2人の沈痛な表情を見て、祐樹は自分がイニシアチブを取るべきだと一瞬にして判断する。最愛の彼の心痛は大変気掛かりだったが、この問題が一段落すれば少しは心が軽くなるだろうと思ったので。 「そうだ。それ以外にはない」  研修医風情が生意気な口をきくとばかりに憎憎しげに睨み付けて山本センセは言った。  が、祐樹は何とも思わなかった。大学病院という特殊なヒエラルキー社会に身を置いている慣れだろう。祐樹は確かに研修医で、病院内では今のところ最下位に属している。尤も、私生活、特に恋愛面ではヒエラルキーなど考えたくもなかったけれども。ただ、最愛の彼も別に祐樹が研修医であることについて拘りはないようだ。あくまで1人の男性として扱ってくれる。ただ1人の恋人として扱ってくれる日が来ればどんなに良いかと思うのだが。 「そうですかねぇ?私のような最下層の医師はナースからも同等かそれ以下に扱われるのです。ですから、特に恋愛相談などは良く受けます。もちろん、誰と誰が付き合っているかなども、彼女達の大好物の噂なんですよね……ご存知でしたか?」  多分知らないだろうな…と思ってカマを掛けてみる。万が一「知っている」という返事が返って来たら戦術を変えるつもりだった。医師――しかも肩書きは「心臓外科助手」――の山本センセにナースは恋愛の話しなどしないだろうと思った。  祐樹は誰とでも気さくに話すし、自分で言うのも何だが彼女達も気安く相談をしてくる。祐樹も職場でナースに手を出すつもりも全くなかったし――祐樹は女性も愛せるが、男性の方が断然好きなタイプだったこともあるが――特定のナースとそういう関係になったことは皆無だった。それになまじ祐樹の特殊な性癖は意外なところで役に立っていて、過去に「女性よりも思考や行動が女性の嫌らしさを持ち合わせている」男性とそういう仲になったこともあり、女性(?)心理は良く分かっている。彼女達の相談には的確なアドバイスを返せたことも多々有って、ナースの恋愛の相談に乗っているうちに妙な信頼を勝ち得てしまっている。  案の定、山本センセの血走った視線は宙を泳ぐ。してやったりと言葉を続ける。 「実は私は、手術室の某新米ナースとも仲が良いのですよ。もちろん友達としてですが。女性は、恐ろしいことに『この女性は、彼氏が居るな……』ということは勘だけでなく、服装や化粧の変化などで総合的に分かるらしいです。  その彼女が言ってました。『星川先輩に少なくともこの一年間、彼氏は居ない』と。いやぁ、女性の観察眼は我々男性と違って怖いモノがありますねぇ。お望みなら具体的に申しましょうか?それともその証言者を呼んで話しを聞きますか?  我々医師の知らないところでネットワークが出来ていて、恋愛沙汰に関しては我々の情報網の情報では全く引っかからないですが、かなり精度の高い噂が流れていることもご存知ないでしょうね」  もちろん、手術室ナースの話は口からの出任せだ。だが、星川ナースに彼氏が居ないのは祐樹もおぼろげながら察することが出来ていた。もし、「その新米ナースを出せ」と言われても、あの――他のナースが教授の雰囲気の変化に浮かれていた時に、彼の色香ではなく、特製弁当にばかり目が行っていた――清瀬師長に「特製弁当」を餌に頼んだら、新米ナースの1人や2人は紹介してくれるだろう。そして彼女達から星川ナース恋人不在説を聞き出せば良いと腹を括った。  一方、木村センセは必死な顔をして教授に訴える。 「私は星川ナースと話したことすらありません。田中先生が手術室のナースと知り合いだったら話は早い。裏を取って下さい。真実は1つです。  私は心臓カテーテル術にはいささかの自信が有ります。しかし、香川教授が医局の長となれば術式は俗に言う『香川メソッド』にシフト・チェンジすることは火を見るよりも明らかです。だから山本先生の話しに乗ってしまったのです」  祐樹は、机の下に隠れている彼の太腿――といっても太くはないが――にそっと手を添えた。力付けるためと、何かを言って下さいという二重の意味を込めて。彼は祐樹が触った瞬間、身体を強張らせた。罪悪感に胸が締め付けられたが、今は山本センセの件が最優先だと気を取り直す。 「山本先生、何か言うべきことはありますか?」  彼の涼やかで凛とした声が教授室に響いた。  正面に居る祐樹を視線で人が殺せるならば殺したいという目で睨んだ山本先生は、筋肉に力を込めた。慌てて黒木准教授が彼の腕を掴んでいる手の力を強くしている。 「黙秘します」  そう言ったきり、教授と准教授、そして祐樹に視線を合わせないように上を向いた。何だか校長室に不良行為がバレて呼び出された優等生のような雰囲気だった。  黙秘されては認めさせることが困難になる。術死は実際には起こってない――これは香川教授の人知れぬ努力と彼の外科医としての天賦の才能の賜物だったが――以上は山本センセの「リスクマネンジメント委員会」に報告する件は黒木准教授の適切なアドバイスで祐樹も止める方が得策だと分かったが、内々に辞表を出させることも不可能になる。  昨日、彼を想って眠れなかった時に読んだ山本センセの家族構成から攻めてみようと戦術を変える。 「山本先生のご実家は、Y記念病院ですよね?有名な医師専用のサイトにはそう書いてありましたが?」  山本センセがぎょっとしたように祐樹を見た。相変わらず赤い顔で憤怒を湛えていたが。 「ああ、そうだ」  山本センセは嘘を吐いても仕方がないと思ったのだろう。彼は砂を噛んだような恨めしげな口調で端的に認めた。  きっと彼も祐樹が昨夜見たサイトに良く行っていて、自分の家族構成も見ていたに違いない。 「で、お父様は、Y記念病院の院長先生ですよね?そして、弟さんは優秀な悪性新生物――癌――の外科医だということも事実ですか?」  山本センセは病院内では色々と自分より地位の高い人に便宜を計っていていっぱしの策略家気取りだが、案外底は浅そうだと思った。  それならば、反撃開始に移ろうと思った。目標はメインが山本センセ、そして反対していて情状酌量の余地は有るものの、あんなに危なっかしい手術を見ていたにも関わらず、教授に直訴するなり何なりして術死のリスクを低めようとしなかった木村センセと実行犯の星川ナースの病院からの追放だ。

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