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第十四章 第5話

 祐樹の声がよほど切羽詰ったものだったのか、2人は怪訝な表情を浮かべたが黙って頷いてくれた。  准教授室を出て木村先生を先に歩かせる。黒木先生と声を潜めて会話をした。前を歩く彼は悄然とした足取りで……もう全てを諦めきっているようだった。別に同情はしないが。 「しかし、証人は准教授と私だけですよね?山本先生が、そうすんなりと認めてくれるでしょうか?でっち上げだと騒ぐ可能性は有りませんか?」  黒木准教授は汗皺が出来た白衣の胸ポケットから彼の指より細い――といっても祐樹の指に比較すればかなり太いが――白い機械を取り出す。 「これで、木村先生の証言の一部始終を録音してある。大丈夫だ」  ICチップ入りのボイス・レコーダーのようだった。流石は伏魔殿の大学病院で准教授の地位を掴む人は違う。祐樹は1つ勉強をした気がした。 「術死に関わる事件ですから、病院内の『リスクマネンジメント委員会』に報告すべきでは?」  ふと思いついたことを口に出した。  黒木准教授の顔が強張った。 「それは……止めておいた方が良い。医局内のトラブルは結局、医局の長である教授が責任を負うことになる。『リスクマネンジメント委員会』に呼び出されるのも教授だ。その上、委員を務めているのは殆どがこの病院の重鎮の教授で、事勿れ主義ばかりだ。結局は委員会で香川教授の監督不行き届きを糾弾されて、改善案の書類を山ほど書かされる。そして、公式発表は『術死が一例もない状況を鑑みて香川教授の監督責任を糾弾して彼の改善案の書類提出を求める』という結果となる。そして改善案の書類の山が委員会の書類棚に増えるだけになることは目に見えている。それは徒労だと思わないか?」 「た、確かにそうです。ただ教授の性格を考えると、公にしようと思うのですが……」 「それを止めるのが、我々の役目だ。先ほど、興信所の件を黙っていてくれと頼んでいたな……それも教授に心配や心労を掛けないためだろう?『リスクマネンジメント委員会』にこの件を上げても彼の心労や疲労は増すだけでなく、何も益をもたらさない。だから止める。協力をして欲しいのですが」  そういえば、教授の吊るし上げ教授会のことを思い出した。ああいう席に最愛の彼をまた出席させるのは確かに得策ではない。 「分かりました。なるべくそのように努めます」  教授室の前まで来ると、部屋の中で大きな音がした。失礼を承知の上でノックもなしに扉を開けた。教授室の応接用のソファーが一個ひっくり返っている。先ほどの大きな音はこのせいかと思った瞬間、彼と目が合った。彼の透明な眼差しが祐樹を認めて幽かに揺れた。  その瞳は安堵と怯えの色を宿していて――決して山本センセを怖がっているのではないことは、立ち上がった山本センセの存在を彼は一瞬忘れたかのように祐樹だけを見詰めていた――彼に嘘を吐いたわけではなかったが、隠し事はある。罪悪感に身が竦み、ワイシャツの下の皮膚は鳥肌が立った。  彼の澄んだ眼差しを見ていると、決意が崩れそうになる。あえてそそくさと視線を外す。 「教授、大丈夫ですか?」  身体からは想像するのが難しいほど敏捷に部屋に入った。祐樹もそれに続く。  山本センセを見ると、怒りのあまりか、顔が真っ赤だった。 「ああ、山本先生がいきなり立ち上がっただけだ」  こんな時にも落ち着いた涼やかな声は変わらない。 「さっきから同じ質問ばかり手を替え品を替え言ってきて。だから俺の答えは1つだって言っているだろう?」  これは危ないな……と思った。彼の口調は上司に発すべきものではなかったので。素早く教授の前に回りこんだ。最愛の彼のためならば一発や二発殴られても祐樹は平気だったので。  山本センセの目が据わっている。やはり危険な兆候だ。  教授は威圧感を与えまいと応接用のソファーに山本センセを座らせたのがどうやら逆効果だったらしい。 「さ、早くこちらへ」  彼の骨ばった肩を掴んで、執務机の前に座らせる。肩を掴んだ瞬間、僅かに彼のしなやかな身体が強張った。自業自得とはいえしみじみ切ない。  執務用の椅子に座った教授の後ろに立つ。いつでも飛び出せるように筋肉を強張らせて。  執務机を隔てて山本センセと黒木准教授が立ったまま控えている。黒木准教授も山本センセの逆上振りを見かねたのか、彼の腕を掴んでいる。そして、幽鬼のようにその横に木村センセが立っていた。 「黒木准教授……お疲れ様でした。こちらにいらしたということは何か進展が有ったということですね?」  少し疲れを滲ませた声だった。  黒木准教授は、山本センセの腕を先ほどよりも強い力で掴んでから――白衣の皺の寄り具合で分かってしまう――大きく息を吸う。その後、思いきったように言った。 「田中先生の多大な協力で……木村君は、『星川ナースへと手術妨害の見返りとして山本君に言われるままお金を入金した』と確かに証言してくれました」  祐樹の直ぐ前に座っている彼は、満足と失望が絶妙にブレンドされた吐息を零す。 「嘘だ!そうじゃないっ!俺を陥れるためのでっち上げだっ。木村の不始末の手伝いをしただけなのに」  肩で息をしながら山本センセは悲鳴のような怒号を上げる。憤怒の表情を浮かべて木村センセを血走った目で睨みつけている。 「私は、確かに山本先生からお金を借りました。ただそれは家族の援助のためのお金です。それを盾にしたのは山本先生でしょう?香川教授の手術を失敗させるために……」  観念しきった静かな声だった。 「医局内でこのような不祥事が起こるとは……私の不徳の致すところだ……な」  彼はそう呟くと俯いた。背後に居た祐樹は彼の白く細い首が項垂れるのを痛ましく見ていた。が、ホンの一瞬、彼の7つの頸椎――首から頭にかけての骨だ――が浮き出した優雅な首のラインと、すっきりとカットされた彼の後ろ髪のラインにドキリとする。  慌てて目を逸らした。理性では見惚れていてはいけないと分かっていたので。 「違いますよ、教授のせいではありません。全ては私の監督不行き届きが原因です」  黒木准教授も沈痛な声で言った。相変わらず、山本センセの腕はしっかりと掴んでいたが。

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