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第十四章 第4話
「そんな……!己の出世欲のために…かけがえのない患者さんの命を奪うことに医師として、いや、人間として最低の行為だとは思わなかったのか?」
黒木准教授は怒りのあまり震える声で言った。語気が激しい。やはりこの人も患者さんの命を最重要視しているのだな……と、無駄に権勢欲が強い教授や準教授の中では稀有の人だと思った。
祐樹も黒木准教授と同じ思いで、しかも、最愛の彼が手術妨害の時に見せた憔悴振りを唯一知っている身としては一緒になって糾弾したかったが。
ただ、それを実行すると木村センセの口から全容を話して貰えないかもしれないと敢えて普通の声で質問を重ねた。
「入金記録では、香川教授の着任前から星川ナースに金銭を支払っていますよね?先ほどの話とは食い違いませんか?」
木村センセは黒木准教授の激高振りに、肩を落として続けた。彼なりに黒木准教授の役に立っていたと信じていたのだろう。
「私は佐々木前教授の後継者が黒木先生だと良いなと思っていた。前教授の手術の十八番は心臓カテーテル手術だ。そちらの実績を積んでいたので、そこそこ自信が出て来た。
佐々木前教授の後を継ぐのが黒木准教授ならば、メインの術式はカテーテルの筈だ。
ところが、香川教授が就任されるとバイパス術が主流となる。ならば、黒木准教授を教授にした方が良いと判断した。だから足を引っ張ろうと……」
砂を噛むような口調で木村センセは言った。先ほどの黒木准教授の言葉を聞いて、心の底から後悔したのだろうか?
「成る程……それでお金に困っている星川ナースに話しを持ちかけた……と、そういうことですか?」
「ああ、そうだ。彼女なら金額次第では話しに乗ってくると、山本先生が。実際その通りだったよ。ただ、実際に手術妨害が始まった時は後悔した……。やはり計画が机上の空論で行われている時と実際に行われている時とでは……何というかやっぱり違うものなのだと思い知らされた」
「御覧になっていたのですか?手術の様子を?」
強いて笑顔を作って聞く。内心では心が煮えくり返っていたが。後悔するくらいなら始めからするな!と。
「ああ、手術見学室で見られる限りの手術は見ていた。それで、山本先生にもう止めようと何度も言ったものだった……」
「そういえば、星川ナースの道具出しに私も違和感を抱いていたのだが……まさかそういう裏の事情が有ったとは」
黒木准教授は見破れなかったのが悔しいのか、唸るような声で独り言を漏らした。
「そんな良識の有る先生が、どうしてずっと加担していたのですか?」
「山本先生に私は逆らえない。というのは、恥ずかしい話なのだが……実家に立て続けに不幸が襲って。詳しいことは省くが……父の会社での失敗、そして実の弟が会社を経営しているのだが、そちらもこの不景気の中で経営状態が悪化して……闇金融にまで手を出してしまっていた……。そのことをどこから嗅ぎつけたのか……山本先生が援助を申し出てくれた。それで父と弟は危機を脱したのだが、借用書……、山本先生と私の間で取り交わしたモノだ……は存在する、裏切れば一括返済を申し立てると強い口調で言われていた。もちろん、一介の勤務医には絶対に支払えない金額の借金だ。だから、協力するしかなかった」
昨夜、最愛の彼に少しでも役立つならばと木村センセの家族構成を調べた。父親は証券会社勤務とのことで祐樹も専門外であまり良く知らないのだが、株取引には不正がつき物だと聞いたことがある。その辺のトラブルだろうか?それに弟が会社を経営しているのも知っていた。
会社の借金は、個人が住宅ローンなどで借り入れるお金などとはケタ違いの融資を受けるものだ。そんな話を行きつけのゲイ・バー「グレイス」で聞いた記憶が有った。
木村センセは嘘を言っていないと確信した。祐樹が調べた情報と全く同じことを言っているので。
「それは……山本先生が卑劣過ぎます……。この話を香川教授の前でもお話し願えますか?」
木村先生は全てを話して肩の荷が下りたのか、苦渋に満ちた表情ながらもどこか清々とした僅かな微笑を浮かべて頷いた。
「ただ、もう少しだけ伺いたいことが有ります。星川ナースを抱きこんでの手術妨害は、山本先生が主犯で木村先生がきょ、いや、巻き込まれたという、二人だけの陰謀ですか?」
「共犯」と言いかけたが、木村センセには同情の余地が僅かにはあったので表現を変えた。
「私は山本先生からの指示でしか動いていない……。だが、山本先生は黒木准教授も黙認済みの話で、それに他にも協力者が居るようなことも匂わせていた……。だが、黒木先生は全くご存知でなかったことから考えても、もしかしたら山本先生の口から出まかせかもしれないし、本当に黒幕が居るのかも知れない。それは……私には確かめる術がない」
「成る程……参考になりました。有り難うございます。ところで、私は昨日から興信所の調査員と思しき人間に尾行されていまして……その件について何かご存知では?」
「こ、興信所っ?」
黒木准教授が調子外れの声を出し、ソファーから飛び上がる。太目の身体からは想像も出来ない敏捷な動きだったが、ギシギシとソファーが音を立てる。ソファーを壊さないか、少し心配になった。
木村先生は沈痛な瞳の底に怪しげな光を湛えて祐樹を見た。
「その件なら知っている。山本先生は、協力者には色々と話すタイプの人間なのは田中先生も知っているだろう?以前は先生だって、味方に取り入れようとしていたのだから。
香川教授は星川ナースの妨害が有っても完璧なメス捌きをして、失敗する様子が全く無かった。そこで浮上して来たのは田中先生の存在だ。手術中に田中先生が怪我をした件だけしか詳しくは知らないが……山本先生は『田中先生は香川教授のアキレスの踵だ』とほくそえんでいた。それで、田中先生の身辺調査を依頼したと言っていたな。それも信じられない金額を支払って」
「それは二日前から開始されたという認識で良いのですか?」
「多分……。そちらの方は良く知らないが」
教授室に黒木准教授と木村センセを連れて行って山本センセを徹底的に追及するのが良いだろうと思った。ただ、興信所の件は、最愛の彼にはまだ知られたくない。もしかしたら山本センセにも黒幕が居るかも知れない可能性が捨てきれない以上は。
「今から教授室へ行くことを提案します」
黒木准教授の方を見据えて断言した。黒木先生も分厚い顔の肉を震わせて頷いた。
最愛の彼は今も山本センセと対峙しているハズだ。山本センセが逆上して彼に危害を加えていないか気になった。教授の秘書に見張りは頼んで来たが、やはり、彼の傍に居たかった。教授は運動神経に恵まれてはいるが、護身術に類する武術を習ってはいないことは知っている。木村センセの証言が取れた今、心は最愛の彼の彼の無事な姿を見たいと叫んでいる。
「ただ、両先生にお願いが……興信所の件は、教授には黙っていて戴けませんか?」
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