315 / 403
第十四章 第3話
携帯電話の特有の雑音越しだったが、はっきりと山本センセの取り乱した声と彼の涼やかな声は録音されていた。
――でしたら、何故入金が2人分なのですか?たとえ武士の情けで山本先生が金銭を貸与した事実が有ったとしても、手切れ金なら木村先生が1人で振り込むのが普通ではないのですか?御二人からの入金があれば彼女も戸惑うのでは?――
――そ……それは、彼女の要求がエスカレートしてきまして…「この金額では不足です」と言われやむを得ず、木村先生の手が空いていない時に私がたまたま頼まれて銀行に行ったのです。本人確認が出来ないと振り込めないと銀行員に言われまして。なので、名前が違うのですが。ただ、木村先生が彼女との関係を清算するために私がお金を用意しただけのことで。木村先生が星川ナースと交際が有ったことは極秘裏にする必要がありましたから。彼女が騒ぎ立てないためにも唯々諾々と要求を呑む以外になかったのです――。
――おかしいですね。星川ナースについてはこちらのほうでも人物評は伺っています。彼女の結婚観も。大学病院の勤務医とは結婚したくないと確かな方が証言していますよ?それなのに交際するというのは?――
彼の淡々とした、しかし揺るぎない口調に祐樹は安堵する。どうやら彼も佐々木前教授の自宅に訪問して教授夫人に聞いたことを覚えていたらしい。
――それは……恋愛は自由ですから。勤務医でも好きになったら仕方ないのでは?世の中には色々な愛の形が有りますよね。この病院の皆が仰天する晴天の霹靂の取り合わせも……ありますよ――
山本センセが、意味ありげに言葉を切った。「晴天の霹靂?」まさかと祐樹と彼のことだろうか?背筋に汗が伝った。
「ともかく、山本先生は『木村先生が交際していた星川ナースとの関係の清算に当たり、堕胎までさせた彼女に手切れ金の金銭を支払った』という主張をされていますが?」
携帯電話から流れて来る音声に固唾を飲んで聞き入っていた木村センセの顔は憤怒の表情を湛えていて……普段は冷静な人なだけによりいっそう凄みがあった。
歯軋りの音まで聞こえる。一回息を大きく吸い込むと、黒木准教授――彼も、携帯の会話に身体を強張らせて聞いていた――に向かって話し始めた。
「聞いて戴けますか?私は、確かに星川ナースに金銭を振り込みました。それは認めます。ただ、それは山本先生の指示に従っただけで、付き合っていたなどとんでもない話です。教授が仰るように、彼女は勤務医ごときを恋愛対象にはしていません」
「では、何故そんな無茶なことをしたのだね?」
教授の二倍…いや三倍かも知れないもあるだろう太い指を振り回して黒木准教授は言う。どうやら彼も怒りのせいか、興奮しているようだった。
「私は、香川教授の手術に呼んで貰えない――謂わば香川教授の求めるレベルに達していない外科医です。そんな医師が『心臓外科の専門医』になれないと懊悩していた時に山本先生から『黒木准教授の方がウチの医局の長に相応しいのではないか』と耳打ちされたことが切っ掛けでした」
ギシリとソファーが軋む音がする。黒木准教授が身体を動かしたせいだ。祐樹が身じろぎしてもあそこまで派手な音は立てられない。やはり、体重差のせいか……と不謹慎にも思ってしまった。
「どうして私がこの医局の長に?」
呆気に取られた表情と口調に木村先生の顔が驚きに変わる。
「お望みではなかったのですか?教授のポストを?」
恐らくは驚愕の余りだろう、唇までが震えている。目も大きく見開かれていた。
「佐々木前教授が退官される時、少しは期待しましたよ。だが、香川教授がポストに就かれて……私はしばらくは彼の補佐として准教授の職務をまっとうするが、引継ぎが終ったら身の振り方を考えようと思っていました。あんなに若い香川教授の下で働かなくてはならない身の不運を呪ったこともありました。だが、彼のあの神業のようなメス捌きと手術の時の度胸、そして彼の性格を把握してからは、彼の補佐で良いと思うようになってきたのです。だから、五月の今でもこの部屋に居ます。もし、香川教授の欠点が目に余るようなら4月中に退職願を提出する積りでいましたから」
何かを懐かしむように目を閉じて黒木准教授は楽しそうに言った。
その言葉を木村先生は茫然自失といった状態で聞いていた。
「黒木准教授もこの計画に内々に賛成して下さっている…と聞いて…いました」
語尾が徐徐に弱まっていく。
「計画とは?」
黒木准教授が言葉を発しないうちに祐樹が発言した。
「香川教授は教授職の半分しか担っていらっしゃらない。だから教授としての発言力は二分の一だ。そしてその半分の方で失敗が続けば、もう半分の職務を完全にこなしている黒木准教授の株は上がり、逆に香川教授のは下がる」
木村先生は質問している人間が自分よりも遥かに格下の研修医風情であることも忘れたかのように素直に答えてくれた。内心の動揺の現れだろうか?
「つまり、講義などの教授業務をなさっている黒木准教授に特別な落ち度はない。しかし、香川教授の手術で術死が続けば、香川教授不要論が浮上してくる……そういう読みですか?」
「ああ、そうだ。彼の手術に失敗が続けば、腕だけを買われて招聘されただけの上っ面だけの教授職なのだから、斉藤医学部長も庇わないだろう。それに、香川教授は斉藤医学部長のご令嬢との婚約話を即、断られたと聞いている。そのせいも有って斉藤医学部長は少し香川教授と距離を置いた。それを良いチャンスだと……」
明らかに血圧が高い顔をした黒木准教授は普段は温和な瞳に怒りを宿らせている。
彼からは何も聞かされてなかったが、齋藤医学部長令嬢との婚約話――ナース達からは聞いていた――はただのウワサではなく、本当に有ったことなのだと実感した。そんな美味しい話をニベもなく断るとは……。それは彼の性癖が問題なのだろうか?だが、高校時代に、内々とは言え婚約者が居たことは知っている。もちろん確かめてみたことなどないが、彼は女性ともそういうことが出来るタイプの同性愛者なのだろうと思っていた。
「ワザと術死を起こさせるように企んでいたのかっ!」
黒木准教授が怒鳴った。普段は穏やかで、声を荒げることもない人の一喝だけに部屋の空気が凍りつく。
「そのための金銭の授受ですよね?銀行口座に振り込まれたものは」
祐樹は努めて笑顔で言った。一人が激高している時にはもう1人は穏やかに攻めた方が得策だと判断して。
「ああ、そうだ」
悟りを開いたような落ち着いた声で木村先生が認めた。
ともだちにシェアしよう!